おかざきや矢矧の橋のながきかな

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―世間虚仮― A.ネグリの来日中止

この20日には来日して、昨日は京都大学で、今日29日は東京大学でのシンポジウムや東京芸大で歓迎イベントなどが催される筈だった「帝国」や「マルチチュード」の著者A.ネグリ氏らの来日が、外務省と法務省入国管理局の演じたドタバタ劇で直前にして中止された、という。

抑もこの来日は財団法人国際文化会館による招聘で半年ほど前から予定されていた。EC加盟国の外国人が報酬の伴わぬ形で来日する場合には入国査証は必要ないということだったが、直前の17日になって査証申請が要求された。

その根拠となったのが入国管理法第5条4項「上陸の拒否」-1年以上の懲役もしくは禁固またはこれらに相当する刑に処せられたことのある者は本邦に上陸することができない-だそうだ。たしかに彼は政治犯として祖国イタリアで刑に服した前歴がある。ところでこの第5条4項には「政治犯罪により刑に処せられた者は、この限りではない」という但し書きがあり、政治犯には「特別上陸許可」が認めれる。これを根拠に入国管理局はネグリ氏に対し「政治犯」であった「書類上の根拠」を示せと要求したらしい、彼が政治犯として服役したというのはあまねく周知のことだろうにだ。03年の釈放以来フランスに在住する彼に直ちに「書類上の根拠」を示せる筈もない。急遽来日は断念せざるを得なくなったというわけである。

以下は「日本の友人たちへの手紙」と題し、財団法人国際文化会館に寄せられたたネグリ氏らからの一文抜粋。


まったく予期せぬ一連の事態が出来し、私たちは訪日をあきらめざるを得なくなりました。この訪日にどれほどの喜びを覚えていたことか! 活発な討論、知的な出会い、さまざまな交流と協働に、すでに思いをめぐらせていました。
およそ半年前、私たちは国際文化会館の多大な助力を得て、次のように知りました。EU加盟国市民は日本への入国に際し、賃金が発生しないかぎり査証を申請する必要はない、と。用心のため、私たちは在仏日本大使館にも問い合わせましたが、なんら問題はありませんでしたし、完璧でした。

ところが2日前の3月17日(月)、私たちは予期に反して査証申請を求められたのです。査証に関する規則変更があったわけではないにもかかわらずです。私たちはパリの日本大使館に急行し、書類に必要事項をすべて記入し、一式書類(招聘状、イベントプログラム、飛行機チケット)も提示しました。すると翌18日、私たちは1970年代以降のトニの政治的過去と法的地位に関する記録をそれに加えて提出するよう求められたのです。これは遠い昔に遡る膨大な量のイタリア語書類であり、もちろん私たちの手元にもありません。そして、この5年間にトニが訪れた22カ国のどこも、そんな書類を求めたことはありませんでした。

飛行機は、今朝パリを飛び立ち、私たちはパリに残りました。

   2008年3月19日 パリにて。
       ジュディット・ルヴェル/アントニオ・ネグリ


文中にあるように釈放後の5年の間に22カ国を訪れているというそのなかには中国や韓国も含まれていると聞く。グローバル化した世界で知識人・文化人たちの交流を阻む此の国の壁はかほどに厚く高いとあらためて思い知らされ暗澹とさせられる。

予定されたシンポジウムでパネリストとして参加する筈だった東大の姜尚中ら19人の関係諸氏が24日付で、「来日直前にビザ申請などを要求したのは事実上の入国拒否であり、自由の侵害だ」として抗議声明を出した、というのも無理からぬ話だ。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−21

   真昼の馬のねぶたがほ也   

  おかざきや矢矧の橋のながきかな  杜国

矢矧-やはぎ-

次男曰く、前を日永もきわまると見た、場の付である。「矢矧の橋」は東海道岡崎の西、矢作川の架橋で長さ208間、扶桑第一の長橋とされた。平句とはいえ、初五に「−や」と遣い句留を「かな」と作るなど平句の作法に反するが、それほど長さをもてあます情を誇張し滑稽化して連衆に伝えたかったか。

因みに岡崎は家康の祖父松平清康が居城を構えてより三代、徳川氏発祥の地である。6歳で今川氏の人質となった家康が晴れて岡崎城に戻れたのは14年後、義元の桶狭間敗死によってだった。尾張衆がこういう句を詠んで、神君家康の若き日の望郷の念を含ませぬはずがない。

「やとかなを重用してその如何にも長々しき気分を出せる手段巧を極め、特にながきかなのかなが取って付しように不随にぶら下れるが半ば眠り居る気分によくうつりてまことに妙なり」-樋口功-、と。



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