捨し子は柴苅長にのびつらん

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―表象の森― 前向きか、後ろ向きか

3月も末日、先日卒園式を迎えたK女は、保育園のこととてその後も連日通い、自転車で送り迎えをしてきたのだが、それも今日で最後、長年お世話になった保母さんたちや一緒に遊んできた仲間たちとお別れの日だ。
「何時に、お迎え行こうか?」と声をかけると、
間髪入れず「7時!」と答えが返ってきた。
子ども心に名残が尽きないのか、保育園に居られる時間はギリギリ目一杯みんなと一緒に居たいらしい。
その小さな胸が熱くなっているのが傍らの私にも微かに感じられた。
そりゃそうだろう、6年も毎日遊び馴染んできた世界だもの、その脳裏にはさぞ愉しかった記憶がいっぱいに詰まっている筈で、なにやらザワザワ、心落ち着かぬ様子がありありと見て取れた。


「前向きか、後ろ向きか」とはサルとヒトの出産の違いのことだ。
別冊日経サイエンス№151「人間性の進化」を読んでいると、進化の過程のなかで、なぜヒトだけが他の多くの霊長類とは違って、特異な形で胎児が母体から出てくるようになったか教えてくれている。

サルの胎児は母親の骨盤と尾骨で囲まれた広い後部に幅広い後頭部を押し当て、頭から先に産道に入り、そのまま母体と向き合う形で出てくる。
サルは後ろ脚でしゃがむか、四つん這いで出産する。子どもが出てくると、母親は手を伸ばして産道から出てくるのを助けてやり、自分の乳首へと導いてやれる。サルの新生児は、ヒトの場合ほど未熟児ではないから、力も強く、いったん手が外に出たら、母親の身体にしっかりと掴まり、自分で産道から出てこられる。

ヒトの出産も、サルと同様、母体に向き合う形で出てくるとすれば、分娩時の介助も要らず、母親の苦労や胎児の危険も大いに少なくてすむのだろうが、二足直立歩行と脳の肥大化の代償として、後ろ向き-母体と反対の向き-で出てくるという出産を余儀なくされてきた。

二足直立歩行はヒトの骨盤口を捻れさせ、胎児の出てくる産道を複雑にさせた。大きな脳を持つようになったヒトの胎児は、頭と肩を産道内で回旋させる必要があり、母体とは逆向き-後ろ向き-に生まれてくるようになった。

大きな脳をもつ胎児、直立歩行に適応した骨盤、胎児が母体に対し後ろ向きに生まれてくる回旋分娩という、ヒトの出産における三重苦は、他者の介助がなければ胎児にとっても母体にとってもきわめて危険のともなう難事となってしまった。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−23

   庄屋のまつをよみて送りぬ   

  捨し子は柴苅長にのびつらん   野水

捨-すて-し、柴苅-しばかる-長-タケ-に

次男曰く、訳あって捨てた子が、拾われて今では庄屋の許に養われている、ということを内容とした相対-あいたい-の付である。話としてはつまらぬが、父親の俤は家康の父松平広忠だろうと考えれば、この捻りもわるくない。

諸注は成行上、「左辺の匂」付-秘注-、「起情の附也。他のことぶきによみ送りたる松の狂歌より、ふと吾子の事を思ひ出たるなるべし」-升六-、「前句を遠き境より庄屋が家の老松を詠じて贈りたると見て、其歌を贈りし人の心の中の想を叙べしなり。‥旧家の老松といふによりて案じたるなるべけれど、たゞにそれのみならず歌といふところに深くくひ入りて、一句の姿を映りよく作り出したれば、再三吟誦するに、其人其事其情、目前に髣髴として現れ、そゞろに人をして堕涙せしむるに足る」-露伴-というような解になる。いずれも二句同一人と読んでいる、と。


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