雪の狂呉の国の笠めづらしき

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―世間虚仮― 子どもの今昔

まこと子どもというのは、遊び仲間を獲るとそのエネルギーは足し算どころか乗算的に溢れかえる。
いつもなら親子三人連れかあるいは私と二人だけで、独り遊びに興じるしかない蜻蛉池公園への遠征?も、昨日は隣のマンションに住む同じ保育園に通っていたユウマ君を誘ってのことだったったから、そのはしゃぎようは往きの車の中からして運転の邪魔になるほど煩いほどのものだった。

岸和田の外れ、府立の公園としてはめずらしく大型遊具の充実した広場をもつ蜻蛉池公園は、春休みとはいえ平日なのに昼近くともなると、家族連れや子ども同士、数家族のグループ連れなどでかなりの人出になる。

霽れたり曇ったり、時に風も強く、やや肌寒い感もあったけれど、あれやこれやと二人してたっぷり3時間をうち興じていたが、片やひとりっ子の女の子、他方は半年ほど前に女児誕生したばかりで、それまではずっと兄と弟の二人兄弟で育ってきた男の子、就学前の春休みの一日はどちらにとっても遠足気分で、しばらくは記憶に残るほどの愉しさだったに違いなかろう。


帰宅後、夕刊を開けば、写真入りの訃報記事が眼についた。「ノンちゃん雲にのる」の石井桃子、101歳の大往生である。この童話の発表は47年で、数年後にはベストセラーに。鰐淵晴子主演で映画化されたのが55年だった。

その映画を学校からの団体鑑賞で近くの映画館に行って観たのを想い出す。日本人の父とドイツ人の母とあいだに生まれたという混血の、天才少女バイオリニストでもあった、銀幕のなかの美少女ぶりは、もちろんまだ白黒の画面だったけれど、子ども心にも眩しいばかりの輝きがあり、小さな胸に強く焼きつけられたものだった。

松岡正剛も千夜千冊で「ノンちゃん雲にのる」を採り上げたその文中で、「ぼくはこの銀幕のなかの美少女に魂を奪われるほどに恋をした。‥しばらくは寝ても醒めても鰐渕晴子だったのだ。」と告白?しているが、当時、日本中の同じ年頃の子どもらがほぼ洩れなく文部省推薦として団体鑑賞で観たであろうのこの映画、その所為でご同様の想いを抱いた男の子が、日本中のいたるところ、どれほどの数にのぼったことか、といま振り返れば微笑ましくもあり、また矛盾するようだが恐ろしいような心地さえする。あの頃の子どもらは、戦後教育の画一的環境のなかで、かほどひとしなみに心の洗礼を享けていたのだ。

今も昔も、子どもの本質とは変わらないものではあろうが、その時代々々の刻印を帯びて、差違もまた歴然としてあるもの。就学を迎え、現在の教育環境のなかに組み込まれていく子どものこれから先、易きについては危険きわまりなく、かといっていかに棹さすべきか、これがまたとんでもないほどに難しい。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−25

   晦日をさむく刀売る年   

  雪の狂呉の国の笠めづらしき  荷兮

雪の狂-キョウ-、呉-ゴ-の国

次男曰く、子を捨て差料を売る時世には傾-かぶ-いた風狂がかえって珍重に値する、と観相で付けている。「刀売る人」ではこうは読めぬ。

むろん、「笠は長途の雨にほころび‥、狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」の吟を手みやげに当地入りした客に対して改めて酬いた作りで、荷兮は、まろうどが既に「夜着は重し呉天に雪を見るあらん」、「沓-クツ-は花貧重し笠はさん俵」-共に天和2年吟、虚栗所収-とうそぶいた御仁だと承知していて、一座の注意を促している。

拠所は「笠ハ重シ呉天ノ雪、鞋ハ香バシ楚地ノ花」-閔(ビン)の僧可士-というよく知られた対句で、「詩人玉屑」や「禅林句集」など当時活用された詩法便覧にも載っているものだ。

露伴は、晋の王子猷-シユウ-が嘗て呉の地に住したとき、雪夜の興にまかせて長途、戴安道を訪うたが、興尽きて会わずにそのまま門から引き返した、という故事を引く、「旧案を翻して、世に在る者の日蔭の友を雪に乗じて訪へるとしたる、これ俳諧にして、主人は肩寒く、客は心暖く、主人が紙衣の膝の頭やつれ、客が刀の鐺-コジリ-の簑の端に光るも見ゆるやう想はれておもしろし」と。

また樋口功は、「呉国の笠といふ既に僧可士の笠重呉天雪の芭蕉が使ひし名句もありて一節ありて聞ゆるなれば、それだけにても一廉-ひとかど-の句となるなり。‥前句の人が刀を売り酒に代へて饗せしと見るも面白きも、又押詰りて明日の米にも困り居る処へふと風狂人の訪れ来れる趣と軽く見るも可ならむ」と。


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