あだ人と樽を棺に呑ほさん

Db070509rehea123

―表象の森― 即興論:尼ヶ崎彬の‥

先だって図書館で借りたものだが、尼ヶ崎彬の「ダンス・クリティーク-舞踊の現在/舞踊の身体-」(勁草書房2004.02刊)を読んだ。近頃の舞踊評論家なるものがどんな視点から舞踊を論じているのか、一応知っておくのに若くはないとの思いからだ。
昭和22年生れの団塊世代で東大の美学・芸術科出身という彼は、主著に紀貫之以来の短詩形文芸に通底する美意識を独自の視点で読み解いた「花鳥の使-歌の道の詩学1-」「縁の美学-歌の道の詩学2-」などがあり、わが国固有の文芸へのアプローチから出発した人であるらしい。その彼がなにゆえ本来の道を些か逸脱したかのように90年代初頭から舞踊評論をものするようになったか、その辺の事情についてはよく分からない。よくは分からぬが、つかこうへい以後の80年代演劇ブームによく親しみ、90年代のContemporary Danceブームから舞踊へとその関心を転じたといった経緯が本書の中で綴られていたから、世代としては私などとごく近い人ながら、舞踊の評者としての眼は多分に時代のズレがありそうである。
書中、Improvisation Dance-即興舞踊-に関して論じた箇所-第2部「舞踊の身体」/「視線の中の身体」稿-を、長くなるが以下引用する。


(1)-「一人で行われる即興舞踊は、場合によっては憑依に近い作意の放棄に至ることもある。ふつう即興において身体の動きは無意識でも偶然でもなく、一瞬毎に次の動きが着想されている。ただしその着想は先取りされた目的から逆算されるのでもなく、統一的構成へ向かうのでもない。既に遂行された、つまり生成されてしまった動きをもとに次になすべきことが限定されていく。一瞬前には想像もしなかったものが、次の瞬間には必然として見えてくる。これを遂行すると、それを与件として次になすべきことが見えてくるのだ。もっとも与件として遂行された動きだけに頼るとき、生成されるものはたいていボキャブラリーの在庫の枠を超えず、変化に乏しいものになるようだ。では与件として他に何があるか。一つは自己の身体の内部に蓄積された-あるいは抑圧された-身体的記憶がある。それは精神分析における無意識のように、意識が把握している在庫ではないが、蓋を開けてやりさえすればパンドラの箱から飛び出した欲望のように身体の表面に現れるだろう。もう一つは身体をとりまく外部である。ダンサーが五官を研ぎ澄ませば、さまざまな刺激が身体を取り巻いているのがわかるだろう-この刺激を高めるために音楽家や美術家とコラボレーションすることもある-。身体は孤立した個体でもなく、世界に組み込まれた存在であり、いわば身体と世界との相互作用により刻々と新たな相が切り開かれていくのである。いずれにしても意識は明晰に保たれているが、その意識は自分のコントロールできない内部や外部と出会い、身体とともにそれに呼応し、次のステージを生成してゆくのである。このプロセスにおいては、いったん生成されたステージが、それでは対応できない刺激を内部または外部に見出し、生成されたばかりのものを自ら破壊して次のステージを生成することを繰り返す。この生成と破壊の循環にはまり込むとき、もはや身体に何かを演ずる余裕などありはしない。たださまざまな身体の誕生と死の繰り返しをさらすだけである。これが自由に行えるようになることが、古来武道で「融通無碍」「自在の境地」と言われるものかもしれない。」


(2)-「二人で行われる即興は、ダンサーにとっては前述のコラボレーションにおける一人の即興と似ている。外部刺激が音楽や空間などの環境であったものが、他者の身体になるだけである。しかしダンスとしては二つの身体があるためにまったく違ったものになる。というのも、観客にとっては、二つの身体で一つの作品になるからである。それは見るべき身体が二倍になるという足し算ではない。二つの身体を下位要素とする第三の身体が生まれるのである。それは二人のいずれとも異なる、四本の手と四本の脚をもつ、もう一つの生き物である。それは夫婦から生まれる子供に似ているかもしれない。部分だけを見れば確かに親のどちらかに似ているが、全体を見ればどちらでもない第三の人格であり、しかもその人格は両者の足し算からは説明できない。そしてどのような子供が生まれるかは、親でさえも予測も設計もできない。ダンサー二人の身体が互いに接触しているコンタクト・インプロビゼーションにおいては、ダンサー自身この第三の身体を感ずるときがあるという。二つの身体をもとに自己組織化してゆく新しい生命体の一細胞になったように感ずるのである。それは明晰な意識をたもちながら一種の憑依が行われている状態だと言えるだろう。このとき観客はダンサーの身体が何者かに「成る」のを見るというより、ダンサーを超えた第三の存在の誕生を見るのである。ダンサーたちはいわば両親となって、それを「生む」のである。生み出されたものを「作品」というのは適当ではない。それは必ずしも一貫して終演まで生きつづけるものではないからだ。むしろ二人の身体関係の中からとつぜん姿を現す第三の身体の誕生と消滅のプロセスこそが、私たちの眼にさらされている作品であるというべきだろう。」


(3)-「コンタクト・インプロビゼーションは二人以上でもできないことはない。しかし身体が余りに多数になるとき、即興の舞踊作品は困難になる-カニングハムは怪我をするといってやめた-。ただ観客に見せるための作品としてでなければ、これに近いものは現実にある。クラブやディスコやライブで。フロアでは多様なダンスが思い思いに行われている。独り音楽に没入してまわりが眼に入ってない者、グループで予め用意した振りをそろって踊る者、ひとよりも目立って会場の視線を集めようとする者。流れている音楽は一つだが、行われているダンスは統一がなく、スクランブル交差点のように混乱している。だが交差点を渡る一人一人に注目すれば、それぞれ明確な方向性を持っているように、踊り手たちはそれぞれの流儀をもって踊っている。しかもそれらは同じ一つのリズムに同調している。個々の身体は同じ「ノリ」の中でのヴァリエーションとみなすことができる。とすれば、その全体を一つの「作品」とみなすことはできないとしても、一つの生命体としてみなすことはできる。つまり個々の踊り手はそれと意識することなく、新たな身体を生み出しているのである-最近はこれを意図的に舞台に発生させる振り付け家もいる。たとえばフォーサイスや山崎広太-。もし踊り手がこれを意識すれば、その身体の群は明確なうねりへと収斂されていく。そこには自己組織化された生命体が立ち上がる。


(1)のSolo-一人-の即興に関してはかくべつ異を唱えるべきものはないといってもいい。敢えて唱えるとすれば一点、たとえ即興においても「統一的構成」へ向かいうるということだ。
ところが即興者がDuo-二人-となる場合を論じた(2)で彼の射程にある表象世界は、80年代に登場したContact Improvisationにきわめて限定されているようにみえる。そうならざるを得ないのも、舞踊-Dance-は身体による表象世界にはちがいないが、身体そのものにまで還元した地点から発想するゆえではないか。たしかに舞踊が成り立つには舞踊する身体をぬきにはありえぬが、それは身体図式であり、所作や身振り-Gesture-であり、動き-Movement-であって、身体そのものではない。
Duoの即興がContact Improvisationしか視野に入らぬ世界の狭小さが、(3)におけるように二人以上の場合を考えるとき、Trio-三人-による表象世界を捨象し、一足飛びに多-Mass-の世界を論じることとなり、群の一様性へと収斂してこざるをえなくなるのだろう。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−27

   襟に高雄が片袖をとく   

  あだ人と樽を棺に呑ほさん  重五

次男曰く、「あだ人」は婀娜-なまめかしく色っぽいさま-人。「樽を棺に」と云ったところが興の気転だが、前句のはしゃぎを承けたまずまずの遣句である。はこびの見所は、「襟に高雄が片袖をとく」が自とも他とも読める作りを見咎め、打越と自他を分かったところにある。

前二句が同一人なら他・他・自、別人なら他・自他・自となるはこびである。仮に「あだ人と樽を棺に呑ほして」と作ればとたんに話は朦朧体になり、出口を見失ってしまう。

揚屋の大騒ぎと附たり」-升六-、「前句とのかかり、解せずして可なり」-露伴-、「あだ人とにて前句の高雄がと眼眼相対せり」-樋口功-。句はこびの興ということが全くわかっていないようだ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。


Db070509rehea123

―表象の森― 即興論:尼ヶ崎彬の‥

先だって図書館で借りたものだが、尼ヶ崎彬の「ダンス・クリティーク-舞踊の現在/舞踊の身体-」(勁草書房2004.02刊)を読んだ。近頃の舞踊評論家なるものがどんな視点から舞踊を論じているのか、一応知っておくのに若くはないとの思いからだ。
昭和22年生れの団塊世代で東大の美学・芸術科出身という彼は、主著に紀貫之以来の短詩形文芸に通底する美意識を独自の視点で読み解いた「花鳥の使-歌の道の詩学1-」「縁の美学-歌の道の詩学2-」などがあり、わが国固有の文芸へのアプローチから出発した人であるらしい。その彼がなにゆえ本来の道を些か逸脱したかのように90年代初頭から舞踊評論をものするようになったか、その辺の事情についてはよく分からない。よくは分からぬが、つかこうへい以後の80年代演劇ブームによく親しみ、90年代のContemporary Danceブームから舞踊へとその関心を転じたといった経緯が本書の中で綴られていたから、世代としては私などとごく近い人ながら、舞踊の評者としての眼は多分に時代のズレがありそうである。
書中、Improvisation Dance-即興舞踊-に関して論じた箇所-第2部「舞踊の身体」/「視線の中の身体」稿-を、長くなるが以下引用する。


(1)-「一人で行われる即興舞踊は、場合によっては憑依に近い作意の放棄に至ることもある。ふつう即興において身体の動きは無意識でも偶然でもなく、一瞬毎に次の動きが着想されている。ただしその着想は先取りされた目的から逆算されるのでもなく、統一的構成へ向かうのでもない。既に遂行された、つまり生成されてしまった動きをもとに次になすべきことが限定されていく。一瞬前には想像もしなかったものが、次の瞬間には必然として見えてくる。これを遂行すると、それを与件として次になすべきことが見えてくるのだ。もっとも与件として遂行された動きだけに頼るとき、生成されるものはたいていボキャブラリーの在庫の枠を超えず、変化に乏しいものになるようだ。では与件として他に何があるか。一つは自己の身体の内部に蓄積された-あるいは抑圧された-身体的記憶がある。それは精神分析における無意識のように、意識が把握している在庫ではないが、蓋を開けてやりさえすればパンドラの箱から飛び出した欲望のように身体の表面に現れるだろう。もう一つは身体をとりまく外部である。ダンサーが五官を研ぎ澄ませば、さまざまな刺激が身体を取り巻いているのがわかるだろう-この刺激を高めるために音楽家や美術家とコラボレーションすることもある-。身体は孤立した個体でもなく、世界に組み込まれた存在であり、いわば身体と世界との相互作用により刻々と新たな相が切り開かれていくのである。いずれにしても意識は明晰に保たれているが、その意識は自分のコントロールできない内部や外部と出会い、身体とともにそれに呼応し、次のステージを生成してゆくのである。このプロセスにおいては、いったん生成されたステージが、それでは対応できない刺激を内部または外部に見出し、生成されたばかりのものを自ら破壊して次のステージを生成することを繰り返す。この生成と破壊の循環にはまり込むとき、もはや身体に何かを演ずる余裕などありはしない。たださまざまな身体の誕生と死の繰り返しをさらすだけである。これが自由に行えるようになることが、古来武道で「融通無碍」「自在の境地」と言われるものかもしれない。」


(2)-「二人で行われる即興は、ダンサーにとっては前述のコラボレーションにおける一人の即興と似ている。外部刺激が音楽や空間などの環境であったものが、他者の身体になるだけである。しかしダンスとしては二つの身体があるためにまったく違ったものになる。というのも、観客にとっては、二つの身体で一つの作品になるからである。それは見るべき身体が二倍になるという足し算ではない。二つの身体を下位要素とする第三の身体が生まれるのである。それは二人のいずれとも異なる、四本の手と四本の脚をもつ、もう一つの生き物である。それは夫婦から生まれる子供に似ているかもしれない。部分だけを見れば確かに親のどちらかに似ているが、全体を見ればどちらでもない第三の人格であり、しかもその人格は両者の足し算からは説明できない。そしてどのような子供が生まれるかは、親でさえも予測も設計もできない。ダンサー二人の身体が互いに接触しているコンタクト・インプロビゼーションにおいては、ダンサー自身この第三の身体を感ずるときがあるという。二つの身体をもとに自己組織化してゆく新しい生命体の一細胞になったように感ずるのである。それは明晰な意識をたもちながら一種の憑依が行われている状態だと言えるだろう。このとき観客はダンサーの身体が何者かに「成る」のを見るというより、ダンサーを超えた第三の存在の誕生を見るのである。ダンサーたちはいわば両親となって、それを「生む」のである。生み出されたものを「作品」というのは適当ではない。それは必ずしも一貫して終演まで生きつづけるものではないからだ。むしろ二人の身体関係の中からとつぜん姿を現す第三の身体の誕生と消滅のプロセスこそが、私たちの眼にさらされている作品であるというべきだろう。」


(3)-「コンタクト・インプロビゼーションは二人以上でもできないことはない。しかし身体が余りに多数になるとき、即興の舞踊作品は困難になる-カニングハムは怪我をするといってやめた-。ただ観客に見せるための作品としてでなければ、これに近いものは現実にある。クラブやディスコやライブで。フロアでは多様なダンスが思い思いに行われている。独り音楽に没入してまわりが眼に入ってない者、グループで予め用意した振りをそろって踊る者、ひとよりも目立って会場の視線を集めようとする者。流れている音楽は一つだが、行われているダンスは統一がなく、スクランブル交差点のように混乱している。だが交差点を渡る一人一人に注目すれば、それぞれ明確な方向性を持っているように、踊り手たちはそれぞれの流儀をもって踊っている。しかもそれらは同じ一つのリズムに同調している。個々の身体は同じ「ノリ」の中でのヴァリエーションとみなすことができる。とすれば、その全体を一つの「作品」とみなすことはできないとしても、一つの生命体としてみなすことはできる。つまり個々の踊り手はそれと意識することなく、新たな身体を生み出しているのである-最近はこれを意図的に舞台に発生させる振り付け家もいる。たとえばフォーサイスや山崎広太-。もし踊り手がこれを意識すれば、その身体の群は明確なうねりへと収斂されていく。そこには自己組織化された生命体が立ち上がる。


(1)のSolo-一人-の即興に関してはかくべつ異を唱えるべきものはないといってもいい。敢えて唱えるとすれば一点、たとえ即興においても「統一的構成」へ向かいうるということだ。
ところが即興者がDuo-二人-となる場合を論じた(2)で彼の射程にある表象世界は、80年代に登場したContact Improvisationにきわめて限定されているようにみえる。そうならざるを得ないのも、舞踊-Dance-は身体による表象世界にはちがいないが、身体そのものにまで還元した地点から発想するゆえではないか。たしかに舞踊が成り立つには舞踊する身体をぬきにはありえぬが、それは身体図式であり、所作や身振り-Gesture-であり、動き-Movement-であって、身体そのものではない。
Duoの即興がContact Improvisationしか視野に入らぬ世界の狭小さが、(3)におけるように二人以上の場合を考えるとき、Trio-三人-による表象世界を捨象し、一足飛びに多-Mass-の世界を論じることとなり、群の一様性へと収斂してこざるをえなくなるのだろう。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−27

   襟に高雄が片袖をとく   

  あだ人と樽を棺に呑ほさん  重五

次男曰く、「あだ人」は婀娜-なまめかしく色っぽいさま-人。「樽を棺に」と云ったところが興の気転だが、前句のはしゃぎを承けたまずまずの遣句である。はこびの見所は、「襟に高雄が片袖をとく」が自とも他とも読める作りを見咎め、打越と自他を分かったところにある。

前二句が同一人なら他・他・自、別人なら他・自他・自となるはこびである。仮に「あだ人と樽を棺に呑ほして」と作ればとたんに話は朦朧体になり、出口を見失ってしまう。

揚屋の大騒ぎと附たり」-升六-、「前句とのかかり、解せずして可なり」-露伴-、「あだ人とにて前句の高雄がと眼眼相対せり」-樋口功-。句はこびの興ということが全くわかっていないようだ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。