理をはなれたる秋の夕ぐれ

Crossing_point

―四方のたより― CROSSING POINT

角正之君からDance Performanceの案内がきている。
New York在のEllis Wood Dance Companyとのコラボレーション・イベントだそうな。
主催は兵庫県立美術館アートフュージョン実行委員会とあり、会場を美術館アトリエ-1としている。日時は4月27日、午後3時30分開演の1回のみ。
チラシには、二つのだんす表現の、似て非なるものの、クロッシング・ポイント、とある。
Ellis Woodのほうは振付作品でタイトルが「Falcon Project」、テーマはジェンダーについてということらしい。
一方、角正之のほうはもちろん即興Collaborationだが、演奏にSaxの山本公成とKontrabassの岡野裕和が参加、音と動きの即興対話 、「Body Tide-身体潮流-」と題している。
角君たちの世界だけでなく、未知の振付家の作品にも接しうる機会とあれば、少なからず興も湧く。
早めに稽古をきりあげてひさしぶりに出かけてみようかと思っている。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」−04

  藤ばかま誰窮屈にめでつらん  

   理をはなれたる秋の夕ぐれ  越人

次男曰く、三句で留めてよい秋を四句まで伸している。
しかも、打越に「この比の月」とあるのに、かさねて「秋の夕ぐれ」と、気分にたよった季節の印象を以てしたもつれかたが気になる。

「秋の夕暮れ空の気色は色もなく声もなし。いづくに如何なる故あるべしとも覚えねど、すゞろに泪こぼるゝが如し」-長明・無名抄-。

秋晩を理外と眺める感は越人ならでも覚えるが、藤袴をなぜ夕暮と結んだのだろう。と思って次句-これも越人である-に目を遣ると、「瓢箪の大きさ五石ばかり也」とあり、瓢箪は夕顔の実だということに気がつく。玉鬘は夕顔の娘である。「誰窮屈に」と問掛けられて、棟梁の俳諧歌に思及ばなかった筈はなく、「秋の夕ぐれ」の見定めもまずそのあたりからと読んでよいが、越人は、「源氏」好みの客に対する亭主の持成しの趣向にも気付いているらしい。「秋の夕ぐれ」の「夕」とは、師の「藤ばかま」の句が玉鬘つまり夕顔の娘のうえをかすめている、と読取った合図である。そう覚らせるように、次句を「瓢箪の」と起し二句一意の続としている。

両吟という形式は、長・短句の均分をはかるために、座順の取替を必要とする。したがって独吟による付合の箇所がいくつか生れるが、とかくこれは二句同根の発想に嵌りやすい。越人の二句作りも、「瓢箪」の執り成し、解釈のいかんによっはその危険があるだろう。

「秋の夕ぐれ」がたんなる時分ではなく、俤を立たせるための人情含の表現だとわかれば、「この比の月」-打越-とのもつれもこだわらなくて済む。手法、古風といえば古風だが、越人らしいしゃれた縁語の裁ち入れ方である、と。


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