なに事も長安は是名利の地

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―表象の森― クロスなき CROSSING POINT

一昨日-4/27-の兵庫県立美術館のアトリエで行われた日米のDance Companyによるコラボレーション「CROSSING POINT」を観ての感想を少し書きとめておく。

鑑賞まえ、二つのダンス表現の「似て非なるもの」との謂に若干の期待を抱かせるものがあったが、既視感に満ちたものとは云え初めの角正之君たちの即興はともかく、Ellis Woodの振付作品が始まるや、それは見事に裏切られ、此方の関心は雲散霧消してしまった。

この二つの世界、似て非なるもの、なんぞではない、どこまでも非なる遠く対極に位置する世界、それも非常に低いレベルにおいてのことだから、CROSSING POINTなどという視点からは語りようもない。

Ellis Woodの作品で、観るほどのものがあったのは、冒頭の彼女自身によるSoloだ。妊娠8ヶ月ほどにはなろうという丸い大きな腹部を、あからさまにそれと分かる稽古着の如き衣裳のままに迫り出させ、少々エキセントリックな身振りを交えて動く姿には、たしかに意表を衝いたものがあり、「オイオイ、そんなことまでして、胎児は大丈夫かいな?」などと客席をハラハラさせるなど、ダンスとは異次元のナマの迫力や驚きがあったのだが、成程、こういうものがダンスとして成立しうるということ、それは認めてもよいだろう。

だが、その彼女が4人の踊り手たちに振り付けた作品は、構成も展開も稚拙、構築の論理はDancerの思わせぶりな心象的身振りにしかなく、時折見せる激しい動きはいくら重畳しても表現としての形成力をもたない。4人の衣裳たるや見るも無惨、そのセンスはさらにひどいもので、ジェンダーに拘りつづけるという振付者の、観念上の劇的な意味づけばかりが虚しく空転しつづける舞台だった。

さて既視感に満ちたと云った角君たちの即興のほうだが、彼の仕事はこれまでにも何度か接してきているのでやはりそういわざるを得ない。収穫は、演奏者たち-Saxの坂本公成、Kontrabassの岡野裕和、Voiceの北村千絵-との協働作業がかなり煮詰まってきていると感じさせることだろうか。とくにVoiceにおいては些か煩瑣に過ぎるほどにDancerと共鳴あるいは干渉しあっているが、このあたり飽和状態に達しているかとみえ、今後はむしろもっと削り込んでいく作業が必要ではないかと思われる。

即興のDanceにおいては、あらかじめの決め事が意外に多いとみえ、意想外の展開へとはこぶことはなかったのではないか。それゆえ表象の世界は予定調和的、波乱の契機は伏在していたとしてもそれが顕わになってくるような場面はなかった。角正之をシテとし、二人の女性-小谷ちず子と越久豊子-を脇やツレのごとくみえてしまう三者の関係性が、この場合問題だろう。彼らの場合、Trioで臨むより、各々Duoで試みたほうが世界はおもしろくなるという気がする。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」−07

   風にふかれて帰る市人   

  なに事も長安は是名利の地  芭蕉

次男曰く、場を見究めて二句一章としている。

逆-理由-付気味に読める作りだが、はこびは初裏の入に当り、折立にふさわしい句姿と起情を必要とする。むしろ「なに事も」と観相化して次句を呼び込んだところが工夫、と見るべきだ。「市」とは長安に立つ市で、長安へ帰っていくわけではない。

「白氏文集」の「張山人ノ嵩陽ニ帰ルヲ送ル」感傷詩に曰く、「‥、四十余月長安に客たり、長安は古来名利の地、空手にして金無きものは行路難し、朝に九城の陌-ミチ-に遊べば、肥馬軽車 客を欺殺-ギサイ-す、暮に五侯の門に宿れば、残茶冷酒 人を愁殺す、春明門外城高き処、直下 便ち是れ嵩山の路、幸ひ雲と泉の此身を容るる有れば、明日は君-白楽天-を辞し且帰り去らん」

延宝8(1680)年冬の句文に、芭蕉は既にこれを引いている。「こゝのとせの春秋、市中に住侘て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し、と云いけむ人-張山人-のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故にや、

  しばの戸に茶を木の葉掻くあらし哉」

このとき芭蕉、37歳だった、と。


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