人にもくれず名物の梨

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―表象の森― 創発、しくじり或いは不祥事

<A thinking reed> 安富歩「貨幣の複雑性」創文社より

暗黙知の次元」などの著書で知られるマイケル・ポランニー-Michael・Polanyi、1891〜1976-は、

世界を単一レベルの原理で理解しうるという思想を拒否し、下位レベルの原理の内部からその原理によっては規定され得ない上位の原理の「創発」する階層的世界観を提出した。しかも、創発する上位の階層は原理的に下位の階層になかった新しい「不祥事」を生み出すと指摘する。

「生物に於いて、上位の原理はいずれも、そのすぐ下の原理によっては確定されない境界を制御する。上位の原理は、それがはたらくためには、下位の原理に依存し、そのさい下位の諸法則をやぶることはない。そして、上位の原理は論理的に下位の原理によって説明されえないので、上位の原理は、そのような下位の原理を通じてはたらくことから<しくじり>を犯す危険にさらされている。

生命の発生は最初の創発である。それは、より高い原理をもつますます高等な形態の生命を生み出す、その後の進化の全段階にとっての原形である。-略- 進化の結果、ますます包括的になる活動の系列は、ついに人間の出現をもたらすが、活動がより包括的になる段階ごとに、新しい<不祥事>が追加される。生物の成長能力は、それぞれの種に典型的な形態を生み出すが、その能力はまた奇形を生むかもしれない。生理学的機能は、機能不全やさらには致死性の諸病の危険にさらされている。知覚、欲求充足、学習には、過失という新しい不祥事がつけ加わる。そして最後に人間は、動物よりもはるかに広い範囲の過失にさらされているだけではなく、道徳意識をもつがゆえに、邪悪な存在になることも可能となったと見られるのである。」


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−06

  まひら戸に蔦這かゝる宵の月 

   人にもくれず名物の梨   去来

次男曰く、無住ではなかった、其人は独り者だとさとらせる付である。梨は兼三秋の季だが、別名、妻梨とも呼ばれる。

「もみぢ葉のにほひは繁し然れども妻梨の木を手折りかざさむ」-万葉集・巻十-

「露霜の寒き夕の秋風にもみぢにけらし妻梨の木は」-同-

「妻」「無し」と「梨」を掛けた序だが、二首とも実情のある歌のようだ。
そして去来も亦、妻梨だったというところに、まず思付の俳がある。

その去来は、この興行の一年前、元禄2年の秋、嵯峨野に庵を設け、その周りに4.50本の柿の木のあるところから「落柿舎」と名付けて住まいしている。

  柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山  去来

句作りのたねがわかれば、呉れたくても呉れるわけにはゆかぬ滑稽は容易に読めるが、そういう作者の人柄を承知していて、諸注の如く、吝嗇-リンショク-だの偏屈だのと勝手に想像してもはじまらぬ。前句を実と見定め-蔦・蔦紅葉は兼三秋の季語-、居の工夫を以て応じた落柿舎主人の体験的句作りに気付いた解など見当らぬ。去来は、被うに任せるのも落ちるに任せるのも、造化随順という点では同じことだ、と言いたいのだろう。この句作りは大いに一同の笑いを誘ったに違いない、と。

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