はきごゝろよきめりやすの足袋

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−表象の森− 簡素とゆたかさ

渡辺京二「逝きし世の面影」より −№3−

勝海舟に影響を与えたオランダの海軍軍人カッテンディーケ-W. J. C, Ridder Huijssen van Kattendyke、1816〜1866、「長崎海軍伝習所の日々」-は云う、「日本の農業は完璧に近い。その高い段階に達した状態を考慮に置くならば、この国の面積は非常に莫大な人口を収容することができる」と。

またオールコック-既出-によれば、「自分の農地を整然と保つことにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはない」と。

彼らをことに瞠目させたのは水田の見事さである。
1856(安政3)年、最初の駐日総領事となったハリス- Townsend Harris、1804〜1878、「日本滞在記」-は云う、「私は今まで、このような立派な稻、またはこの土地のように良質の米を見たことがない」と。

また1827(文政10)年から30年まで長崎商館長を務めたメイラン-G.F.Meijlan、1785〜1831-は「日本人の農業技術はきわめて有効で、おそらく最高の程度にある」と。

・速水融の「勤勉革命-Industrious Revolution-」説というのがある−18世紀英国型の、経営面積の拡大と大量の家畜及び大型農具の導入といった資本集約的な農業革命に対し、徳川期日本では可耕地/人口比率が低く、家畜飼養の土地余剰もなく、「耕耘は、‥肉体的な力をエネルギー源とする鍬や鋤にかわったし、肥料の多投は除草という作業を増やし、またその購入資金維持のため農閑期の副業を強いた。土地利用頻度の向上は農民にとって自身や家族の労働投下量の増大をもって実現した」と云い、幕末から明治初期にかけて、前工業化段階としては最高の経済的・物質的繁栄は、この「勤勉革命」の成果だった、と言い得るのだろう。

また、トマス・C・スミス-Thomas.C.Smith-はその著書「徳川時代の年貢」-1965年-で、「徳川時代を通じて年貢は苛酷なまでに重圧的だった」という通説は、従来の歴史家の誤ったものであり、検地は一般に1700-元禄期-年以来殆ど行われず、「それゆえ19世紀の中頃には、年貢は100年から150年前の査定を基準としていた」、つまりは査定石高が固定していたのに、その間生産性は絶えず向上し、作物の収量も増加していた。江戸時代後半において「課税は没収的ではなかった」し、「時とともに軽くなった」のである、と説いている。

・衣食住において満ち足りている日本の民衆というイメージは、当時の観察者が一致して言及している彼らの生活の簡素さという点に触れないでは、その含意が十分明らかにならぬおそれがある。

日本人の家には家具らしきものが殆どないというのは、あらゆる欧米人が上陸後真先に気づいた特徴である。
たとえばボーヴォワル-既出-は、「家具といえば、彼らは殆ど何も持たない。一隅に小さなかまど、夜具を入れる引き戸付きの戸棚、小さな棚の上には飯や魚を盛る漆塗りの小皿がみんなきちんと並べられている。これが小さな家の家財道具で、彼らはこれで充分に、公明正大に暮らしているのだ。ガラス張りの家に住むがごとく、何の隠しごとのない家に住むかぎり、何一つ欲しがらなかったあのローマ人のように、隣人に隠すものなど何もないのだ」と書く。

明治初期の東京大学で生物学を講じ、大森貝塚の発見者で知られるモース-Edward Sylvester Morse、1838〜1925-は、1877(M10)年、日光を訪ねた際に通った栃木県の寒村の印象を、「人々は最下層に属し、粗野な顔をして、子どもはおそろしく不潔で、家屋は貧弱であったが、然し彼らの顔には、我国の大都市の貧民窟で見受けるような、野獣性も悪性も、また憔悴した絶望の表情も見えなかった」と記している。

日本における貧しさが、当時の欧米における貧困と著しく様相を異にしていることに、モースは深く印象づけられたのだった。日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」というチェンバレン-既出-の言明もモースと同じことを述べている。日本では貧は惨めな非人間的形態をとらない、あるいは、日本では貧は人間らしい満ち足りた生活と両立する、と彼は云っているのだ。

・1857(安政4)年11月、オランダ以外の欧米外交代表として初めての江戸入りを果すべく、下田の領事館を発ったハリスは、神奈川宿あたりで増えてきた見物人たちの様子を、「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。−これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」と記している-「日本滞在記」-。

1884(M17)年頃からしばしば来日、日本通として知られるようになった米人イライザ・シッドモア-Eliza.R.Scidmore、1856〜1928-は、「日本で貧者というと、ずいぶん貧しい方なのだが、どの文明人を見回しても、これほどわずかな収入で、かなりの生活的安樂を手にする国民はない」、「労働者の住、居、寝の三要件」は「草葺き屋根、畳、それに木綿ふとん数枚」が満たしてくれる。穀類、魚、海草中心の食事は、貧しい者にも欠けはしない。それに「人や環境が清潔このうえないといった状態は、何も金持だけに付いて回るものではなく、貧者のお供もする」

その彼女が描く鎌倉の寒村は、貧しさが生活の真の意味での充溢を排除するものではないことを活写してやまない。「日の輝く春の朝、大人は男も女も、子どもらまで加わって海藻を採集し、砂浜に広げて干す。‥漁師の娘たちが脛を丸出しにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布きれを姉さんかぶりにし、背中に籠を背負っている。子どもらは泡だつ白波に立ち向かったりして戯れ、幼児は砂の上で楽しそうに転げ回る。男や少年たちは膝まで水につかり、あちこちと浅瀬を歩き、砕け散る波頭で一日中ずぶぬれだ。‥婦人たちは海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。あたたかいお茶とご飯。そしておかずは細かにむしった魚である。こうした光景すべてが陽気で美しい。だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ。だから鎌倉の生活は、歓喜と豊潤とから成り立っているかのように見え、暗い面などどこ吹く風といった様子だ」と。

英国公使ヒュー・フレイザ-Hugh Fraser、1837〜94-ーの妻メアリ-Mary Fraser、1851〜1922-も、1890(M23)年の鎌倉の海浜で見た網漁の様子を、「美しい眺めです。青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい躍る網をのばしている。その後ろに夕日の海が、前には暮れなずむビロードの砂浜があるのです。さてこれからが子どもたちの収穫の時です。そして子どもばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子を亡くした老人たちも、漁師たちのまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠を差し出すのです。‥物乞いの人に対してけっしてひどいことばが言われないことは、見ていて良いものです。そしてその物乞いたちも、砂丘の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢や不幸の様相はないのです」と描く-「英国公使の見た明治日本」-。

いまやわれわれは、古き日本の生活のゆたかさと人々の幸福感を口を揃えて賞讃する欧米人たちが、何を対照として日本を見ていたのかを理解する。彼らの眼には、初期工業化社会が生み出した都市のスラム街、そこでの悲惨な貧困と道徳的崩壊という対照が浮かんでいたのだ。モースがまさにその例だが、オリファント-既出-が乞食、盗難、子どもの虐待、口汚い女たちが日本に存在しないというとき、彼の念頭にあったのはまさに、エンゲルスの古典的著述「イギリスにおける労働者階級の状態」-1845年刊-が描き出した世界だったにちがいない。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−08

 かきなぐる墨絵をかしく秋暮て  

   はきごゝろよきめりやすの足袋  凡兆

次男曰く、手の自由が「かきなぐる」なら、足の自由は「めりやすの足袋」の履き心地だ、と付けている。

メリヤス編みの技法が伝えられたのはずっと後のことだから、「足袋」と云っても、伸縮の自在さや指の股のないことに目をつけた、輸入物の靴下のことだとわかる。当時はまだ木綿足袋普及の初期で-天和・貞享頃から使用された-、足袋と云えば皮製が主だったから、「はきごゝろよき」が猶のことよく利く。

京談林の題別発句集「洛陽集」-延宝8(1680)年-の「足袋」の題には、
「唐人の古里寒しめりやす足袋 −眠松」なる句が早々と入っている。

西鶴の「大矢数」-延宝9年刊-にも
「紅毛-オランダ-よりも紙幟-ノボリ-売 − めりやすが脱れぬ事なら草履ぬげ」
「長崎下り住吉の浜 − メリヤスをはいて蛤蜊-ハマグリ-踏れたり」とある。

メリヤスは、延宝末になって、俳諧師が先ず記録に採り上げた、と云ってよさそうだが、凡兆の句作りはそういうことと無関係ではない。云回しは眠松の句から借りたのかも知れぬ。

美術史上、室町時代を一名、水墨時代とも呼ぶ。如拙・周文・雪舟らを生んだ時代だが、その雪舟が歿した半世紀後にはポルトガル船が平戸に入っている。

二句は、片や唐絵好み、片や南蛮・紅毛物好み、という風俗の移りも見繕って、手と足のはたらきをそれぞれ面白く取出している。手法的には外向性に対して内向性を以てした相対の付だが、「かきなぐる」心を「はきごゝろよき」物で生捕った付、というふうにも見ることができる。「‥をかしく秋暮て」と作った修めが、情の渡しにうまく利いている。如拙の筆になる不思議な絵「瓢鮎-ひょうねん-図」を俳諧化すれば、さしづめこんな二句になる。

猶、二句は同一人物と読む必要はないが、前句のところで触れたように、去来と史邦の句を別人と読めば、「めりやすの足袋」は墨絵を描きなぐる人の用である。

打越以下、去来句の「くれず」と云えば「かきなぐる」と破り、「かきなぐる」と云えば「はきごゝろよき」と納めた興の応酬を見ず、史邦・凡兆の句を一体にして絵も足袋も去来句の実用と考えると、屋上屋を架す印象は拭えず、せっかく風俗・文化を以て四つ手に組んだ相対の面白さは失われてしまう、と。


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