芙蓉のはなのはらはらとちる

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<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−11

  ほつれたる去年のねござのしたゝるく 

   芙蓉のはなのはらはらとちる    史邦

次男曰く、「ほつれたる」とあれば「はらはらとちる」と応じ、彼が「去年のねござ」なら此は「芙蓉のはな」だと、言葉の工夫も素材選びも浄化を図る体に作っている。厭離穢土に欣求浄土を合せて二句一意とした、涅槃観相の趣向だろう。ならば、「芙蓉」とは蓮の漢名である。アオイ科の芙蓉-木芙蓉-のことではない。

蓮は古来、晩夏の季で、一方、芙蓉は「誹諧初学抄」-寛永18年-以下に初乃至仲秋、兼三秋の季としている。何故、紛らわしい呼称をわざわざ遣ったか、「はちすの花のはらはらと」ではいけないのか、と見咎めさせるところにちょっとしたひっかけの持成がある。

連衆は一瞬迷いかけて、すぐに蓮の花だと気付く。木芙蓉と解すれば前-かきなぐる墨絵をかしく秋暮て」と同季になり、間に雑の句を挟んだ意味がなくなる。何句続けても雑そのものに季のはたらきはないからこれは制式としても嫌うが、たまたま巡も同じ史邦に当っている。ここで秋のはこびはありえない。

木芙蓉は一日花で、凋めば丸ごとぽとりと落ちる。蓮は三日開閉を繰返し、4日目に花びらが散る、それとてもハラハラとは散らぬが、装飾経や蒔絵経箱など浄土教美術に見られる蓮華の意匠は、文字通り「はらはらと」、舞い散る桜花のごとく描かれている。史邦の作りを欣求浄土と見るのは、この美意識の伝統があるからだ、と。


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