雪けにさむき嶋の北風
写真は「Check Stone」-作品集「四季のいろ」より-
―表象の森― 2年ぶりの「四季のいろ」
午後から日本風景写真協会の第3回選抜展を観に、本町の富士フイルムフォトサロンに出かけた。大阪展は今日が最終日、来週は札幌展だそうである。
「四季のいろ」と題されたこの展覧会は2年に一度の開催だが、前回梅田のマルビルへ出掛けて初めて観てからもう2年が経つかと、この年齢ともなれば「月日は百代の過客にして」の謂がことさら身に沁みる感がする。
どうやら富士フイルムフォトサロンは昨年に梅田のマルビルから本町へと移転していたらしいが、前回に比べ会場が少し狭くなったか、名誉・指導会員の11点と会員選抜の90点、計101点を数える展示の壁面構成は些か窮屈に過ぎようかと思われた。とはいえそこはスポンサー企業、なにしろ会場は無料提供なのだから、選択の余地はなく、なかなか悩ましい問題ではあろう。
展示作品中、もっとも私の眼を捉えたのは「Check Stone」と題された大分県は由布川渓谷での撮影作品。巌の造化の妙が深遠なる景を現出せしめ、こういう景の発見は撮影者にとってもさぞかし無上の喜びであろうと思われた。
一応、全作品を見終わってから、一休みよろしく椅子に腰を降ろしてみれば、手許近くに今回の作品集が置かれていたので手に取ったのだが、その表紙を飾っている写真が「Check Stone」であったのにまず驚かされた。
頁を繰りながら、いましがた観てきた写真の数々の残像を追ったり、実際に観較べてみたりするのだが、壁面に掛けられ、透明なアクリル板を通して観る印画紙に焼き付けられた画面と、アート紙に印刷された画面では、その写真-風景-にもよるが、ずいぶんと印象に隔たりがあるもので、しはらく驚きつつ見入っていた。
「黒部の谷は秋と夏」であったか、これなどは印刷の画面を見てさりげない構図の良さにはじめて気付かされたようなことである。
「怒涛の海」は構図を超えた波濤のDynamismが画面に溢れていた。「水面凍える」はさりげない自然現象に見出した撮影者の造化感覚が良い。「遊泳」の水面のたゆたいを透して見える木の葉の群れ模様もおもしろい。
あと印象に残る作品たち、「峠の桜」「夜明けの静寂」「雨雲覆う」「メルヘンの丘」「暮色」「秋雨の境内」「孤高」など。
近頃の私はなぜだか、夕景であれ落葉であれ、赤茶色の風景に心惹かれてしまう傾向が強いのだが、好みは好み、鑑賞は鑑賞と、なるべく作品に即して観ようとは心懸けたつもりである。
中務さんの「渇き」については、ご自身から「干上がった汚泥」だと聞かされるまで、実景のなんたるかまるで判らなかった。いや聞いてもなお、実景を想像することができないくらいで、実景を切り取り写し取っているはずの世界なのに想像の埒外にあるというこの不思議には、少々面喰らってしまった。
「鳶の羽の巻」−20
いちどきに二日の物も喰て置
雪けにさむき嶋の北風 史邦
次男曰く、二日分一度に食べられたらこれに優る手間の省き様はないが、よもやそんな現実はあるまい、凡兆に惚けられて、いやいやそれがあるんだ、と史邦は応じている。
「二日の物」の内一日分は余り物だ、という見究めがみそである。島も本土の余り物だろう。この気転の連想は俳になる。それも、いまにも雪になりそうな北海の冬なら、申し分ない。食えるときにたらふく食っておこう、という生活の智慧も現実味を帯びてくるから、この有季-冬-の景を以てした虚−実の奪い方は巧い。
凡兆句の手間の省き様を、仮に、「いちどきに夕餉の物も食べておき」「いちどきに三度の物も食うておき」あるいは「貰ひ湯のついでに乳を貰はれて」などと、前句の実の会釈らしく作れば、「雪けにさむき−嶋」に格別の興は顕れぬ。越の北風でも、志賀の北風でもよいだろう。
史邦の句は一見、食いだめから任意な想像を繰り広げて詠んでいるように見えるが、そうではないのだ。「嶋」は軽海かつしたたかな俳言である。「二日の物」がなければ出てこない。
「いちどきに二日の物を喰て置」が、折替りを面白くするために、敢えて虚の作りを以てした謎掛体の工夫だと気付かぬと、解釈はあらぬところへと霧散する、と。
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