むめがゝにのつと日の出る山路かな

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―表象の森― 歌仙「炭俵」

「炭俵」は野坡-やば-が主撰者となり、弧屋-こおく-と利牛-りぎゅう-が扶助。三人とも呉服・両替商越後屋-三越・三井の前身-江戸店-日本橋駿河町-の手代である。
元禄6(1693)年にはじまり、7年6月28日奥付板。諸家四季発句256句、歌仙7、百韻1を収め、内芭蕉指導による歌仙3つを含む。京の井筒屋・江戸の本屋藤助から上梓され、芭蕉晩年の軽みを代表する撰集として上方ではいちはやく評判をとっている。

「夷-えびす-講の巻」−芭蕉「振売の雁あはれ也ゑびす講」・野坡・弧屋・利牛、元禄6年10月20日

「梅が香の巻」−芭蕉・野坡の両吟歌仙、7年初春。

空豆の巻」−弧屋「空豆の花さきにけり麦の縁」・芭蕉・岱水-たいすい-・利牛、7年初夏。
いずれも深川芭蕉庵で興行。


「梅が香の巻」連衆

芭蕉 「猿蓑」撰集を果たした俳諧師は、元禄4年9月28日膳所の無名庵を出て、桃隣を伴い東下の途についた。10月29日江戸着、細道の旅立から2年7ヶ月ぶりである。翌5年5月、再興成った芭蕉庵に入る。8月許六入門、9月膳所から酒堂が下ってきて食客となる-6年1月迄-。6年3月猶子桃印病没-33歳-。7月盆過ぎから1ヶ月間客を謝し閉関した。能役者の宝生暢栄-俳号沾圃(せんぽ)-、越後屋手代、深川茶人衆-杉風一派-と三者三様の新風を模索させるべく芭蕉が動き出したのは、そのあと、6年秋冬の交からである。
7年5月11日、西に上った。10月12日大坂で歿、51歳。

・野坡 竹田氏。寛文2(1662)年福井に生れ、幼時、父に伴われ江戸に出、越後屋に奉公した。初号野馬、句の初見は其角編「続虚栗」-貞享4(1687)年刊-入集の10句・1歌仙-弧屋・野馬・其角-で、既に芭蕉の縁辺に在ったと思われるが、足繁く深川へ通い、親しく教えを受けるようになったのは元禄6年の秋以降、弧屋・利牛も同伴だったろう。「炭俵」が成ったとき33歳。
その後の野坡は、越後屋を退き、宝栄元(1704)年には大坂へ移って門戸を構えたが、40歳以降の大半は九州の肥・筑・豊を股にかけ遊説し、西国に強大な勢力を築いた。門人一千人と云い、元文5(1740)年79歳、大坂で歿。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」−01

  むめがゝにのつと日の出る山路かな  芭蕉

次男曰く、歳時記には「梅が香」を「梅」の傍題として初春に置く。句は早春山路の景を詠んで、一読自明のようだが、「梅が香」という季語は微妙な季語である。

「香を探る梅に藏見る軒端哉」
貞享4年12月、「笈の小文」の旅で名古屋に立ち寄り、当地の防川邸に招かれたときの挨拶の吟。
梅花や花橘の香を「尋ぬ、尋-と-む」という遣方は古歌に例を見るが、尋梅はいずれも春の部類。「探る」と云替えて冬季に移し、初句切れに扱った大胆さは芭蕉の季語工夫の好例で、「探梅」を冬の季題として句に詠み込んだのは芭蕉が最初だろう。

その俳諧師が遣った「むめがゝ」は、「梅」の傍題として云捨てて済ますわけにもゆかぬ。同じ頃「むめが香に追もどさるゝ寒さかな」とも詠んでいる。こちらは余寒-初春の季、立春語の寒さ-の一工夫である。興の晴陰共に無ければこういう句は作らない。

ふと匂うのである。その匂いをたぐってゆけば、思いがけず、「のつと」出てきたまぶしい朝日に逢った、あるいは寒さが急に立ちかえった、と言っているのである。片や、まだ冬だと思っていたがやはり春だと言い、片や、春だと思ったのにまだ冬だった、と言っているところに面白さがある。

形状を感覚的に捉えた俚言や流行語を多用する風潮は、「炭俵」の頃からとりわけ目につく。「どんど」「ひよつ」「ちよつ」「うつすり」「はんなり」など、多くは狂言浄瑠璃・歌舞伎などから流行った言葉らしいが、拾い出せばきりがない。俳諧が当座の挨拶である以上、自然の成行とも見なせる。しかし即興の言葉はもともと、本来の表現が珍しさを失ったから生まれてくるものだ。遣方によっては重くれるだけで、詰らせたり畳んだりの工夫をしたところでいずれは頽る。だからこそ遣ってみたくもなるのだが、「軽み」をめざした俳諧師が俗談平話のこの罠に気付かなかったはずはない。

このあたりの事情について、去来の「旅寝論」には、「其角一日語て曰、今同門の輩先師の変風をしたふものを見れば、梅が香にのつと日の出る山路哉と吟じ給へば、或はすつと、きつと、などいへり。師ののつとは誠ののつとにて、一句の主也。門人のきつと、すつとは、きつともすつともせず。尤見ぐるし。晋子是を学ぶ事なし」と伝えている。其角にはよほど風潮が苦々しく映っていたらしいが、それに対して去来は、「用ゐるまでもなく、同じくは遠慮すべき言葉也」と言いながらも、「雅兄のいへる所は先師の流行をしるものにあらず」、「初学のものは句を似せ言によるも又よし」と弁護している。

日ごろ俳諧も旅の一躰と考え文台引下せば句は反古だと割り切った男の興は、まねて真似られるものではないから、角と来の問答はそれぞれに言い分がある。芭蕉の山路の吟は、詠み古された梅が香の景気をあらためて探っていたら、言葉の行詰りに思いがけずそれを見つけたと言いたげである。

因みに、「のつと」は「ぬつと」と云っても意味はやや同じだが、芭蕉の造語のようだ、と。


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