御頭へ菊もらはるゝめいわくさ

Alti200629

―表象の森― 「夢の中での日常」と「パラ・イメージ論」

島尾敏雄の短編「夢の中での日常」、この超現実的としかいいえないような作品世界を、吉本隆明は「ハイ・イメージ論?」のなかで「パラ・イメージ論」なる一章を設けて、図形論的に解読してみせている。

それを一言で云うならば、言語における概念と、その言語が喚起しうる可変的な像との関係を、有機化学における、一般に基同士の反応する位置関係を表す、オルト-o-・メタ-m-・パラ-p-を導入し、図形化しようというものであるらしいが、高校化学の知識すらすでに遠い彼方の霧の中状態の私などには、取り付く島もないような言葉の叛乱で、まるでお手挙げなのだ。

先ずは、オルト-o-とはなんぞや、メタ-m-は? さらに、パラ-p-とは? さしあたりこれら有機化学の基本的keywordらしいものをごく大雑把に理解するのに、あれこれとネットをググってみたりして、数時間を要してしまったような始末である。
いろいろ見ていくと、オルト-パラ転化=o-p変換の反応では一般に自己発熱が生ずる、ということもわかってきた。

まるで泥濘のなかの落とし物を手探りで掻き分けしているような悪戦の果て、やっと本論を再読にかかる。なるほど少しは見通しよくなってきた。

「文学作品がどんな自意識の手でつくられても、いつも無意識の達成をふくんでいる。‥書き手の主観的な思い入れは、いつもいくぶんかは意図と実現の食い違いにさらされる運命にあるといっていい。これが文学ということの意味なのだ。」

「あるひとつの文学作品のなかで、言葉が像をよびおこすときその像をどう位置づけたらいいのか。‥この像は印象からいえば言葉として意味の流れを減衰させているようにみえる。その減衰をいわば代償としておぼろげな像を獲得しているといえそうなのだ。‥言葉の概念と像のあいだに内から連関があり、しかも概念の強度が減衰するのと言葉の像が出現するのとが逆立するようにかかわっていることを前提にしてみる。すると入眠状態あるいは夢の状態がいちばんこれにちかいことがわかる。この入眠または夢の状態は、ひとつの極限として、ちょうど無意識の独り言が音声をともなわないで呟かれている状態になぞらえられる。‥これとまったく逆の極限をかんがえれば、像が場面ごとに不連続で、意味の流れなどとうていたどれなかったり、前後がアト・ランダムで流れなかったり、まったく荒唐無稽になってしまう場合がありうる。でもどの場合も、像が連続している状態を、無意識に実現している。」

「文学作品の言葉がある場面で像をよびおこしているとき、言葉はこのふたつの極限を境界にして、その内側にある帯のどこかに位置づけられると思える。その位置は言葉の概念が意味の流れとしてさしだすものを減衰させはするが、それの代償としてかすかな像をあらわしている状態だ。この位置は、いってみればオルト-ortho-の位置なのだと思う。オルト位置では言葉は意味の流れをつくりあげる機能をいくぶんか減衰させ、それにともなって、微かな像を手に入れている。」

「なぜオルト位置とみなすべきか。メタ-meta-の位置では言葉の意味の流れはいっそう弱まってしまう。そしてそのかわりに像化の強度はいっそう加わっていく。このメタ位置ではすでにふつうの言葉の概念の群を統轄する像とか、像と像とを概念が統轄している状態を想定したほうがいいことになる。またパラ-para-位置では像の強度としては視覚の映像とひとしい鮮明さを想定しなくてはならず、言葉の像としては不可能にちかくなる。そこでふつうの言葉の像と概念を、もうひとつ垂直の次元から-いいかえれば巨視的な世界視線と対応して微視的に-鳥瞰的に統轄する像の意味をもつことになるため、とうてい言葉の第一次的な像化にふりあてられない。」


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」−07

   藪越はなすあきのさびしき 

  御頭へ菊もらはるゝめいわくさ  野坡

次男曰く、秋三句目、初裏の折立である。

前句を組屋敷などの庭垣と見て、組頭を第三者とした立話の内容を付けたか、あるいは立話の当事者の一人が組頭で、組下の口には出さぬ心の内を付けたか、どちらにも解せるが「さびし」の及ぶところ「めいわく」にまて゜なる、という考え方が面白い。

秋が終ればあとはいよいよ冬籠りだけ、と季節の移りも含ませて読めば心に蓋をした表現が更によく判る。

「もらはるゝ」とは云い得て妙で、手放す辛さ・困惑をおもてに出せないでいる組下と、貰ってやることを報奨の美徳とでも思っているらしい御頭との、ちぐはぐな心理を軽妙に言いあらわしている。。「御頭に」ではなく「御頭へ」と作るから、たかが菊一株と雖も別離の情は人間くさく尾を引く。そこに俳があるだろう。

「めいわくさ」はじつは情けなさでもあるのだが、仮にここを「なさけなさ」と据えれば情の露骨が句を粘らせる。「めいわくさ」は、心の本当のところは口に出さず、突き放した表現だ。そこに「藪越はなす」の輭の取り様もうまく映る、と。


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