娘を堅う人にあはせぬ

Alti200647

―表象の森― 「夢の中での日常」と「パラ・イメージ論」-承前-

「言葉全体が夢とか入眠とかとおなじ状態のところで使われている、まれな超現実的な作品」として昭和23年2月に発表された短編「夢の中での日常」は、文庫にして僅か30頁という掌篇だが、「フロイト的にいえば、検閲と歪曲をとおしてあらわれた夢の場面の流れのように」、時制も空間も日常的な現実感覚からは隔たった7つの短いsceneから成っている。

「まず意味論的な流れがあると、次にそれと対応している像論的な流れがくる。そしてその流れをつなげる意味と像の溶接部位があるかとおもうと、流れを切断するようなパラ・イメージの切断があって、そこから異質の場面へ移っていったりする。ふつうの文学作品ではそれぞれの言葉の内部でおこなわれるはずのものが、文脈の流れの領域と領域のあいだでおこなわれている。」

「レプラ-癩病-の旧友が突然現れたことが、罪障感や不安、おののきだとすれば、レプラの旧友からあんたもやっぱりそうだったのかという呪詛をあびながら追っかけられて、たまたま受付の少女が取っ捕まった隙に逃げ出した行為は、罪障感、不安、おののきが永続的であることを証拠立てるものだ。作者は無意識の扉を意図的に半開きにしてみせて、この永続性の相を下の方から仰高するパラ位置の像に転化している。」

「ここでひとつの場面とちがう場面の接合ということ、あるいは溶接の仕方について触れてみたい。作品のなかでは起こってくる事象は言葉の実在であって、言葉が実在の事象なのではない。どんな事象が起こるか起こらないかは、言葉の概念と像の位置がきめるので、極端にいえば作者がきめるのではない。場面と場面の接合はしぼってゆけば意味論的な場面と像的な場面との溶接にゆきついてしまう。場面と場面が繋ぎ合わされるにはどこかで概念と像との繋ぎ合わせの部分がつりあっていなくてはならないはずだ。」

「文学作品の内部では言葉の限界が世界の限界をきめている。この世界を拡大するには言葉がまず輪郭を崩壊させ、像を深刻化してゆく状態は、はじめに考えられていいことだ。文学の当為は文学作品の内部にはまったく存在しない。言葉の概念にも像にも当為が棲みつく場所はどこにもないからだ。文学いう制度を保守したい批評家だけが文学作品のなかに擣衣を密輸入しようとするにすぎない。文学の世界観は言葉の世界観だ。言葉の世界観は像の世界観だ。そもそも三次元の現実世界などというものがあると錯覚して生きていられる頭脳は、古典近代まででおしまいなのだ。」

・手を休めると、きのこのようにかさが生えて来た。私は人間を放棄するのではないかという変な気持の中で、頭の瘡をかきむしった。すると同時に猛烈な腹痛が起った。それは腹の中に石ころをいっぱいつめ込まれた狼のように、ごろごろした感じで、まともに歩けそうもない。私は思い切って右手を胃袋の中につっ込んだ。そして左手で頭をぼりぼりひっかきながら、右手でぐいぐい腹の中のものをえぐり出そうとした。私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命に引っぱった。すると何とした事だ。その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引き上げられて来たのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き徹って見えた。‥

「この<裏返った身体>の状態は、ふつうの言葉に対してパラ位置にあるふつうの鮮明な映像ではなくて、オルト位置の言葉の像-夢または入眠状態の言葉-に対してパラの位置にあるオルト-パラ位置の言葉の像を実現したことにあたっている。<裏返った身体>あるいは<表面のない身体>がどんな実在の身体をさすのでもないように、あるいはオルト-パラの言葉もまたどんな実在の像をさすのでもない。むしろ意味の流れを視覚像-映像-とはちがった-たぶん死の向う側から投影されるという比喩で語られるような-像によってまったく置き換えてしまった言葉の位置を意味している。それは視覚器官を媒介せずにつくられた像、あるいはすでに概念がまったく減衰された状態ではじめて可能な言葉の像だといってよい。」


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」−08

  御頭へ菊もらはるゝめいわくさ 

   娘を堅う人にあはせぬ   芭蕉

次男曰く、丹精して育てるのは草花ばかりではあるまい、という冷かしに笑いの筋がある。

「御頭に」ではなく「−へ」と人間くさく遣った点を見咎め、「菊」を女名前に執成して軽口のたねとした作りで、事のついでに娘まで貰われてはかなわぬ、と云っている。

但し、前句の余意・余情と考えると、打越以下三句同一人物の感想となりはこびが瞭かに滞る。したがって、別人の付と解するしかないところだ。他に鑑みて用心する体である。人物は立話の相手方でもよい。

双方いずれ似たような性質の経験があって、「藪越」に警戒しながら話を聞いて肝に銘じるらしく読ませるところが面白い。「めいわくさ」に「堅う人にあはせぬ」は詞映りの取出しだ。

古註以下いずれも同一人物の付と見ているが、そうではない、と。


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