あかり消すやこゝろにひたと雨の音

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―山頭火の一句―

句は大正11年の秋。

大正8年の秋からほぼ4年の東京暮しに終止符を打たざるをえなくなったのは、同12年9月1日、あの関東大震災の受難である。

震度7.9の大地震が起こったのは、ちょうど昼時を迎える午前11時58分。東京では地震発生とほぼ時を同じくして134ヶ所から出火したという。この日風もまた強かったというから、次々に延焼、火災はひろがり、三日間燃え続け、東京の大半は焦土と化した。

むろん山頭火も、湯島の下宿先を焼け出され、行き場をなくしてしまったが、その彼の心を完膚無きまでに打ちのめしたのは、誤認とはいえ憲兵隊による逮捕並びに巣鴨刑務所留置事件であった。

嫌疑は社会主義者に連なる者であったが、まもなくその嫌疑も晴れて数日後には釈放されている。上京の際頼みとした茂森唯士の実弟広次が内務省に勤めており、これが地獄に仏と幸い、彼のはからいゆえの釈放だった。

山頭火は、その9月も半ばすぎになって、大杉栄らが獄中の拷問で虐殺されたことを知った。
この事件は、さらに追い討ちをかけるように彼の心を打ちのめしてしまったようである。

東京という都会はなんと理不尽なものであるか、とても怖ろしい、一刻も早く逃げ出したい、そう思う人々はむろん彼だけでなく、東京脱出に駆け込む群集は何万何十万に膨れあがっていた。
東海道線は不通だったから、彼は中央線で塩尻を経て、名古屋、京都へと逃れた。震災下、国鉄運賃はすべて無料だったのである。

山頭火には京大出身のずっと若い一人の連れがあった。憲兵に逮捕される折からずっと行動を共にしていた若者で芥川某という。その若い友が、車中で突然の発熱に苦しみだし、京都で途中下車、急遽入院をさせたところ、原因は腸チフスで、彼はあっけなく死んでしまうのである。

若い友の母親が郷里から駆けつけてくるまで、山頭火はその亡骸とともに過ごし、その時を待った。
無常の親子の対面は、見るも無残、哀れなものであった、という。

山頭火の神経はもうこれ以上なにも耐えられなかったろう。
ひとり、彼は熊本へと、帰っていった。


―世間虚仮― 異常はつづく‥?

北陸地方を襲い局地的な豪雨をもたらした前線が南下、午後からは近畿のあちこちで猛威を奮い、水難事故など被害をもたらしている。

昨日の福井での突風による死傷事故もこの前線の影響なのだろうが、「ガスフロント」現象とかあるいは「ダウンバースト」とか、耳慣れぬ言葉が飛び交っている。

気象庁によれば、8月、9月もフィリピン付近の海面水温の上昇により、太平洋高気圧が発達しやすく、猛暑が続くという。一過性とはいえこういった豪雨や突風の発生は、なおさまざまありうるということらしい。

夏の積乱雲がもたらす夕立は涼味を呼ぶ恵みにて天の配剤といえようが、まこと過ぎたるは及ばざるが如し、過剰なる異常気象となれば人の世に災厄をもたらすばかり。お蔭で年々歳々、未知の気象用語を習うこととなる。


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