露を相手に居合ひとぬき

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―表象の森― マルクスの挫折と転回

何と、何を? われはあやまたずつきさす
血に染む剣を汝のたましひにつきさす、
 神は芸術を知らず、神は芸術を尚ばず、
 芸術は地獄の塵の中より頭に上り、

遂に頭脳は狂ひ、心は乱れる、
われはそれを悪魔より授けられた。
 悪魔はわがために拍子をとり、譜をしるした、
 われは物苦しく死の進行曲を奏でねばならせぬ、

われは暗く、われは明るく奏でねばならぬ、
遂に心が糸と弓とをもて破るまで。
      マルクス初期詩篇「楽人」


じつは、2.3日前に吉本隆明の「カール・マルクス」-光文社文庫-を読んでいたのだが、これまでついぞ知らなかったマルクス自身の私的な傷ましい事件に出会し、少なからぬ衝撃とともに暗澹とさせられていたのだ。
マルクスの伝記を知る人なら、だれでも先刻承知の事実なのだろうが‥。

1849年、ドイツ民衆の最後の蜂起は、時のプロイセン政府によって鎮圧され、マルクスには追放令が下された。彼はこの年の夏、パリを経てロンドンに向かい、ロンドン郊外に永住の居をさだめた。夫人と幼い三人の子はあとからやってきて合流、すぐにもう一人の子が生まれている。この年マルクス32歳。

亡命者マルクスの一家は貧窮をきわめていた。52年には、度重なる家賃の滞納で郊外の貸間は追い出され、ロンドンの最貧民地区の小さな二部屋に住むことを余儀なくされた。

折も折、疫病の流行は猖獗をきわめ、不衛生このうえないロンドンのスラム街は死者であふれかえった。あのナイチンゲールが「To Be a Deliverer-救助者になれ!-」とキリストによる二度目の啓示を受けた、というのもこの頃である。
マルクスの家族も、伝染病でつぎつぎと3人の子が死んでしまうという凄惨な事態に陥った。

本書で吉本隆明は、「経済学と哲学にかんする手稿」などの初期マルクスから、「資本論」にいたる後期マルクスへの転回について、

「経済学は市民社会内部の構造を解明するというモティーフから、経済的な範疇こそが、社会を資本制市民社会にいたるまで発展させてきた歴史の第一次的な要素であるというように転化される。この微妙なマルクスの点の打ち方の移動は、1848年以後のヨーロッパの蜂起とその挫折、それにともなうマルクスの政治的公生活からの疎外、積り重なる家庭生活の貧困といったような全情況の集約された表現であった」とする。

あるいはまた、「ひとはたれでも青年期に表現を完了するという言葉が真実であるという意味では、すでに1843年から44年にかけて、かれの思想はすべて完結されている。そのあとにはなにがくるのか? 現実と時代がかれに強いたものが、ひとつの思想の転回としてやってくるのだ。このような意味で、いまやマルクスに生産的社会の歴史的な考察と、生産的社会の歴史的な考察と、生産的社会そのものの内部構造の究明という課題がやってくる」と。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」−16

  はつ雁に乗懸下地敷てみる  

   露を相手に居合ひとぬき  芭蕉

次男曰く、「下地敷てみる」を「露を相手に」と移した、遣句である。
下地と云い、試みるとあれば、「露の中なる」と、ことばを実の作りで承けるわけにはゆかぬ。釣合の工夫で、どちらも本番ではないというところがみそである。
秋三句とはいえ名月、初雁、露と常套的な寄合語の続きすぎる点が気になるが、旅立の実を避けた前句の作りを見咎めたのはさすがだ。
旅の実際と旅情とは別ものという手ごわい虚実の認識が働いていなければ、「露を相手に」の戯れには思付かない。二句続の虚の体によって旅情はいっそう深められるだろう。
仮にこれを、郎等付添の女仇討の旅などと想像すれば、道中の無聊や望郷の情もそろそろ極に達する気配の見える句作りで、秋意も一時に深まる。
旅体の句を誘われながら、芭蕉ほどの旅好きがその誘いを躱し、遣句を以て只旅情のみを深めているところが妙である。
「ひとぬき」にも意味がある。上を「露を相手に」と虚に作っても、つづけて「居合収むる」とすれば実の句になってしまう。打越-こんにやくばかりのこる-と差合うだろう。尤も「居合収めて」と逆付ふう-前句と一意-に作れば、はこびにならぬこともない。微妙なものだ、と。


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