?見るまどの月かすかなり

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Information<四方館 Dance Cafe>

―表象の森― 映画「闇の子供たち

先週の金曜だったか、劇団「犯罪友の会」の武田一度君から久しぶりの電話でずいぶんと話し込んだ際に、彼からお薦めのあった映画「闇の子供たち」を、朝からミナミに出て観てきた。

近頃の映画上映は、よく調べて出かけないと痛い目に遭う。実は上映は12日まで」というのをsiteで確認して、土曜日の午後から「件の映画を観るべく出かけたのだが、着いてみるとどうしたことか上映している風はない。館の人間に問えば、上映は午前の1回のみで、あとは他の映画を順に廻しているとのことだった。

そういえば、siteで上映時間表も見て、曜日によって10:00〜とか10:20〜とか記されていたが、それ以後の時間帯は−、−と時間の表記はなかった。その意味が、いまどきの映画館はその日その日、猫の目のように時間帯によって変えているなんて思いもしない今浦島状態の私などに分かるはずがない。そんな次第でとんだ無駄足の挙句、あらためて本日の外出となったのである。

闇の子供たち」は梁石日原作の同名小説を映画化、タイ北部の都市チェンマイを舞台に巣くう子どもの人身売買、幼児売買春の実態を背景に、経糸を貫くプロットが、日本人家族の絡む臓器移植で、生きながらの子どもの命を臓器提供させる闇の実態に迫るという、残酷なまでの裏社会を描く、重く強烈なプロテストとなるものだが、カジュマルの大樹に縋りつく傷ましくも哀れな子どもヤイルーンの映像が残酷だが美しい。

映画館には上映15分前には着いた。シルバー扱いだから金1000円也、右と左に分かれたScreen1とScreen2の1のほうだという言葉に促され席についてしばらく待つ。ところが時間がきても始まらない、と職員が舞台横に現れて、映写機器のトラブルにつき、上映をScreen2に変更するので移ってください、と宣ったのには魂消てしまった。

場所を変えて、仕切り直しの上映が無事始まったのだが、耳障りなほどの音量の激しさにまず辟易させられた。流行りのCGを駆使したアクションものじゃあるまいし、描かれた映像の世界とは無関係に圧倒するほどのヴォリウムで劇場を埋め尽くしてなんとする。映像と音とは不即不離、映像に合った音量というものがあるだろうに、そんな微調整もしてくれないなんて、まともな映写技師は居ないのか知らんと思うばかり。

この重い映画を心おきなく鑑賞するには、視覚と聴覚の否応ない分離は甚だ辛かったが、これは監督以下制作者側の責任ではあるまい、あくまで上映する映画館側のsenseの悪さに帰する問題だ。だが映画のほうにも難点がないではない。ほぼ2時間半の長編、一言でいうならその展開は些か冗漫に過ぎたのではないか。プロットの交錯ぶりに比して、主要な人物像たちの内面描写はやや表層的に流れたようで、子どもたちの悲惨な実態に肉迫する映像世界に拮抗し得ていないのは、ノン・フィクション的でありつつもあくまでフィクションへと架橋しようとした姿勢を考えれば、非常に貴重な問題作ではあるが、完成度の高い作品とはいえまいと思われた。

とはいうものの一見の価値ある映画、一日に一回の上映ではあまりにお寒い、もっとひろく多くの人に観られるべき作品である。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」−04

  花荊棘馬骨の霜に咲かへり  

   ?見るまどの月かすかなり  野水

次男曰く、初折の四句目は平句のはじまり。「三冊子」の師説にも第三は「転じて長高く」、四句目は「おもきは四句目の体にあらず、脇にひとし、句中に作をせず」とある。

その四句目-むろん短句である-わざわざ五句目定座の月を引上げることは少ない。芭蕉が譲って持成としたことは瞭かである。これまでの三巻興行に、野水のつとめた月の座が皆無、と看て取ったうえでの心配りだろう。

野水は、承けて「霜」から「?」を起して季移りの月、と工夫している。月は四季に執り成せる。前句と結べば冬の月、この句だけでは秋の季起しになるが、「霜の?」「霜夜の月」は和歌の伝統的詠醍で、月も?も霜の寄合の詞である。霜?-白鶴-月の取合せはわるくない。「咲かへり」の気配に「かすかなり」と打添うた留めも、さらにうつりを増幅する。付き過ぎの感がなくもないが、「窓-円窓-」の取出しは何と云ってもこの句の点睛だ。

句の人の姿は容易に宋代の隠士林和靖を連想させる。俤としているわけでもないが、次句にそれらしき隠士の工夫を求めている、とは読ませる句作りだ、と。


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