いはくらの聟なつかしのころ

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Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -4-

脳死とは何−参照:「救急医学から見た脳死」島崎修次<人工呼吸器と脳死>
脳-中枢神経系-には、大脳、小脳、中脳、橋、延髄、脊髄という部分がある。このうち、中脳、橋、延髄を脳幹という。脳幹は、呼吸、循環などの生命に直結する機能の中枢をなしている。脳幹の機能が失われると、生命維持に欠かせない呼吸が止まって、もはや生きていけないということになる。

ところが、数十年前に人工呼吸器-Respirator-が発明されたことで、脳幹機能が廃絶して呼吸中枢機能停止によって自発呼吸が停止した人に、人工的に呼吸させることができるようになった。心臓はその自動性によって動くので、人工呼吸器で呼吸を維持すれば、脳幹機能が廃絶していても、呼吸と循環は一定期間維持していけるという事態が生まれた。これが脳死である。<脳死の概念>
脳の死という概念には次のものがある。1.全中枢神経死:大脳、小脳、脳幹、脊髄まで、あらゆる中枢神経系の不可逆的な機能停止、2.全脳死:大脳、小脳、脳幹を含む全脳髄の不可逆的な機能停止、3.脳幹死:脳幹だけの不可逆的な機能を停止、の三つである。現在、日本では、脳死を「脳幹を含む全脳髄の不可逆的な機能消失」とする。つまり全脳死の考えをとっている。イギリスなどヨーロッパの一部の国では、脳幹死の概念を受け入れているが、多くの国では、大脳も含めた全脳死の立場をとっている。

脳死、脳幹死、いずれの場合も、人工呼吸器がなければ呼吸による血液の酸素化ができないので、心臓は動き続けることはできない。呼吸ができないと心臓は数分で停止する。全脳死、脳幹死とも、人工呼吸器がなければ、心臓を動かして体の循環を維持することはできないのである。<植物状態との違い>
植物状態とは、大脳が機能廃絶、あるいは機能廃絶に近い状態になっているが、自発呼吸をつかさどる呼吸中枢のある脳幹部は完全に生きている状態である。したがって、植物状態と全脳死、あるいは脳幹死とは完全に一線が画される。

植物状態では、人間が生きるために基本的に必要な呼吸機能、あるいは循環系のコントロールは、正常、あるいは正常に近い状態で働いている。しかし、脳幹死、あるいは全脳死の状態ではこの機能が失われている。

植物状態では、自発呼吸が弱いものから、ほぼ正常な程度の呼吸まで幅があるが、人工呼吸器はほとんど使わずに、栄養さえ与えれば生きていける。意識のレベルは低く昏睡状態であるが、呼吸、循環といった機能は残っている。脳死(脳幹死や全脳死)と、大脳が機能を失った植物状態とは、まったく異なっているわけである。
脳死に陥った後、心臓が停止するまでの経過時間は、患者の個別ケースによってかなりの振幅を示している。約半数の脳死者は2〜3日で心停止に至る。この調査では最も長い人で83日であるが、今までに報告された最も長いものでは約100日である。脳死者の心臓は数日で止まるものもあれば、100日で止まる場合もある。積極的にカテコラミンや抗利尿ホルモンなどを投与すると、心停止に至る期間をながびかせることもできるが、通常は1週間でほぼ70〜80%が心停止に至る。

しかし、脳死が死であるという意味は、一定期間後に心臓が止まるからではない。脳幹を含む全脳の血流が不可逆的に途絶し、脳が融解壊死に陥るからである。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」−08

  賀茂川や胡麿千代祭り徽近ミ  

   いはくらの聟なつかしのころ  重五

次男曰く、岩倉祭というまつりがある。京都の左京岩倉にある山住神社-石座(いわくら)神社-の祭礼で、明治初め頃まで行われていた。

社殿はなく自然の巨石を以て神体とし、言伝えられる京都四石座のうち北にあたる。古代の自然崇拝の面影がまだここには残っている。

祭は陰暦9月15日と伝えられ、其諺の「滑稽雑談」には「北岩倉祭‥俗に岩倉の尻たたき祭と云。神事夜に入て神供を献ずるに、一村の内にして新婚の女を撰びて婚礼の表衣を著して、神供を器に入て頭に載て神前に進む。一村の老若、ちひさき枝木をもて件の嫁どもの尻を打つ也」云々と注している。

句は、前との差障りから名を隠して、趣向のめずらしさは受取ったと付けている。
「胡麿千代祭り」が実の祭と分かれば、京都の秋の奇祭にはこういうのもあると一座に知らせる対付ふうの発想だが、後の月も過ぎた晩秋ともなれば、娘を嫁がせた岩倉の聟どののことが懐かしく思い出される、とずらして仕立てたところが人情句の妙である。連衆が嫁の尻叩きのことを知っていなければ、こういう句は出せまい。

また、「胡麿千代祭り」が架空の謎かけとすれば、貴布彌・鞍馬など古くから伝わる奇祭の形態をあれこれ案じながら岩倉に見究めた付ということになる。そう解釈しても面白いが、前のように読んでおく。

前二句が古縁起を心得て付合としている点を看て取って、相応の行事から、男女の仲のくすぐりを含とした人情を取出したうまい句作りである。当然、次句を挑発する、と。


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