捨られてくねるか鴛の離れ鳥

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Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― Soulful days -7-

「3人の兄と、ひとりの妹へ」

電話にてお知らせしようと思いましたが、書面FAXにて連絡するほうが、事態の流れをより正確に遺漏なく伝えられるかと思い直し、文章にしています。

RYOUKOのことです。
9月13日未明現在、RYOUKOは、法円坂にある独立行政法人国立病院機構大阪医療センター」-以前の国立大阪病院-の集中治療室にあります。

9月9日午後8時30分過ぎ頃-推定-、そのRYOUKOを乗せたタクシー-車種エステマ-が、波除の家を出た矢先の辰巳橋南交差点を右折する際、九条方面より直進してきた自動車-車種ハイエース-と衝突するという事故が発生。
近頃のRYOUKOは、費用も安くつくとかで夜の出勤のためにMKタクシーに家まで来て貰って乗って出かけるのを常としていたとのことです。
右折し徐行しながら直進しかかっているタクシーに、対面方向からの直進車がかなりのスピードで走ってきて衝突したわけで、ちょうどRYOUKOの坐っていたタクシー後部を直撃したことになります。
ただちに救急車が呼ばれ、大阪医療センターに搬送されたのですが、RYOUKOは事故直後から意識不明だったそうです。

私が、母親-元妻-のIKUYOから連絡を受けたのが午後9時過ぎ頃、彼女が救急員から連絡を受けて病院へ駆けつけるタクシーの中からでした。
IKUYOも、そして私も、仕事で泊りだった為少し遅れて駆けつけた弟のDAISUKEも、救急治療室で治療を受けるRYOUKOの姿を垣間見ることも叶わず、容態もなにもわからず、ただ室外で待つばかりで3時間くらいの時が経ちました。

突然、担架に乗せられ、身体中にいろいろな器具を取り付けられたRYOUKOが、医師や看護師らに運び出され、眼の前を通り過ぎていきました。一言聞きえたのは、救急治療は一応終えてこれから別室でいろいろな検査をする、といったようなことでした。
我々3人もその後を追ってその病室の前で、まったく容態の分からぬまま、またもただ待つばかりの3時間あまりを過ごしました。

午前4時を過ぎる頃、今度は3階にある集中治療室に運ばれました。そしてやっと面会が許され、続いて別室で医師から症状の説明を受けました。
病院に運び込まれた時点からずっと意識不明であること、瞳孔反応もないこと、事故の衝撃で脳内に急性硬膜下血腫を起していること、脳の腫れ-脳浮腫-も併発していること。助かる見込は?と問えば、可能性はかなり低いこと‥、といったことがその概略でしたが、そもそも硬膜下血腫がどれほど危険なものか、脳浮腫との因果関係は? 我々に分かる筈もなければ、医師がもう助からないのだと断定しているわけではない、ということに望みを託すしかありません。
医師はすでに集中治療室において低体温療法の治療体制をとっており、この処方を、3日間を目処に行っていくという。その結果、たとえどんなに脳の高次機能障害が遺ることになろうとも、RYOUKOが生きる、生きられるのであれば‥、このまま死にゆくなんて、受け容れられる筈がありません。

それから昨夜までの3日間、許される面会は午後3時から8時までのあいだの30分間、原則として家族のみ、感染等のリスクがあるので中学生以下は不可。
その短い時間を、IKUYO、DAISUKE、私の三人が、それぞれ一緒にあるいは個別にと、生きているか死んでいるか分からぬ、じっと不動のままひたすら眠りつづける、実際のところは現代医療の技術と機器で辛うじて生かされているにすぎないRYOUKOに会い、ただ見つめてきました。

昨夜-9/12-7時半、救急治療をしてくれた医師がそのまま主治医を担当してくれていたのですが、その医師から家族に今後につき話をしたいとのことで、この日も二度目の面会に行きました。
IKUYOも、DAISUKEも、それに私にしても、まだなんらかの治療の試み、それが脳の切開手術なのか別の手立てなのかは分からない、絶望的だけれどまだなにか、それはRYOUKOにも私らにもとても苛酷なことだろうけれど、そういうことを聞かされるものと思って行ったのでしたが‥、
意に反して、もう助かることはない、という冷厳な事態にまともに向き合うしかないというものでした。
すでに脳は死んでいること、ずっと瞳孔反応がまったくないということですから、脳幹も死んでいる、全脳死だということ。
ひるがえって、事故直後、救急で運び込まれ、治療にあたっていたその時点から、すでに脳死状態にあったということ。
いまはただ延命治療をしているにすぎないという事実を、家族みんなが真正面から受けとめ、いつまで続けるのか、いつ打ち切るのか、あのRYOUKOの呼吸を止める、その時、その決定を、三人の家族に委ねられたのだ、というものでした。

13日未明現在、IKUYOも、DAISUKEも、私も、今日ただちに「もう結構です、どうぞ機器を外してやってください」とはとても言えそうもありません。
かたわらRYOUKOには苛酷なことを強いてしまっていることなのだけれど、なお一両日のあいだ、断を下せそうもない、下さない、と考えています。

RYOUKOのこと、事ここにいたるまで、お知らせできなかったこと、お知らせしなかったこと、水臭い奴あるいはそれでも兄弟かとの誹りを受けるかもしれませんが、どうかお許し願います。
IKUYOからも、DAISUKEからも、洩れ知らせることがなかったようで、この未明それを確かめたうえ、こんな形をとることにしました。ほんとうに申し訳ありません。 2008.09.13 早朝記す


以後、13日と14日の午後は、急を聞いた兄弟親族らと、DAISUKEを起点に連絡のいったRYOUKOの友人たちがつぎつぎと見舞に訪れ、集中治療室前の控えのコーナーは思わぬ賑わいをみせていた。
その足もほぼ途絶えた14日夕刻、我々三人は最後通告たる覚悟を確認しあったうえで、当直医に面談を申し入れ、その意志を伝えた。「これ以上の延命治療は、もう結構です」と。
それから1時間も経っただろうか、血圧維持の薬剤投与交換の時に血圧が急降下した。これまでならその際に大量の薬剤投与をしたり、機器を使って無理にも血圧を上げていたのだが、早速これを止めたのだから血圧は20〜25あたりを推移するのみで、いまにも呼吸停止の危機がやってきたらしい。
外にいた我々はすぐに呼ばれ、驚き慌てて駈け込む。RYOUKOはすでに虫の息同然だった。ベッドの傍らで見守ること数分、RYOUKOは静かに息を引き取った。当直医が、瞳孔を診、脈をとり、死を告げた。

平成20年9月14日午後7時14分、RYOUKO死す。
昭和44-1969-年5月15日生れの、39年と4ヶ月の生涯は、ここに呆気なくも幕を閉じた。

翌夕、午後7時より通夜、告別式は16日午後1時30分より、会場は港区夕凪の浄光寺。日頃稽古場としてお世話になっているアソカ学園の麻生さんにお願いし、導師をも務めていただいたわけである。
通夜も本葬も、RYOUKOの友人らがたくさん駆けつけてくれた。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」−11

   うきははたちを越る三平  

  捨られてくねるか鴛の離れ鳥  羽笠

鴛-おし-鴛鴦(おしどり)の鴛は雄、鴦は雌

次男曰く、縁遠い女の心の内をはたから覗く狂言回しふうの仕立、と読めば二句は面白く、ついそう読みたくなるが、これはことばの罠である。解釈はせいぜい、女が離れ鳥に寄せてものを思うというあたりまでで、それ以上「捨られてくねるか」に思い入れて読むと、景を取り出して合せた意味がなくなる。

句の興はむしろ、「二満」あっての「鴛の離れ」という着眼の気転で、それを「くねる」と崩して見せた。一羽のオシドリが番から離れて水面を曲るという写景的状況から、縁遠い女が文字通り見捨てられてひがむあるいは怨みかこつという述懐まで、幅を持っている。

いるが、この後の解釈にさっそくとびついて観想にとらわれると、三句絡みになってはこびは停滞してしまう、と。


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