火おかぬ火燵なき人を見む

Chagall_p01

Information<四方館 Dance Cafe>

―表象の森― シャガール

久しぶりに霽れた秋空にそぞろ誘われたわけではなく、また気鬱ばらしというわけでもないのだが、偶さか連合いも月休とあって、シャガール展を観に兵庫県立美術館に行ってきた。

昔、京都で観た「シャガール展」は、はていつのことだったか、記憶は遙か彼方にあっていっかなはっきりしないが、おそらく40年以上もの時を隔てているのだろう。

初期作品から詳しく解説を読みながら観た所為で、後半期の大作や著名作品が並ぶ展示室に入った頃は、少々草臥れてきていた。すべて見終わって、とどのつまりは2300円也の図録冊子を買い求めるくらいなら、要所々々でたっぷり時間をかけて鑑賞すればよかったとちょっぴり後悔。

最後尾の展示、大画面のタペストリー「平和」などを見ると、中原喜郎氏の「我等何処より来たりて」シリーズの大作が想起され、なにやら懐かしいような感懐に浸らせてくれた。

今日観たなかでのお気に入りは、大作ではないが「ソロモンの雅歌」シリーズ。ところがこの作品、?から?まで5枚あるはずだが、?が展示されていない。いずれもニース国立シャガール美術館に所蔵されている筈だから、何故揃わなかったのか判らない。

版画集の「ラ・フォンテーヌの寓話」や「死せる魂」シリーズもよく見ていくとずいぶん愉しめる。ところが1930年当時のフランスは、ユダヤ人への排他的な風潮が支配的で、国民文学ともいうべきフォンテーヌの古典に、なぜ異邦人のシャガールを起用するのかと批判が噴出、フランス議会にまで採り上げられ問題とされた、というから時代的状況の暗部を照らしておもしろい。

―今月の購入本―
梁石日闇の子供たち幻冬舎文庫
貧困が人ひとりの命を限りなく軽くする。アジアの最底辺で今、何が起こっているのか。幼児売春、臓器売買、モラルや憐憫を破壊する冷徹な資本主義の現実と人間の飽くなき欲望の恐怖を描く。

吉本隆明「日本近代文学の名作」新潮文庫
毎日新聞の文化面で週1回連載した「吉本隆明が読む 近代日本の名作」-2000年4月~2001年3月-をまとめた一冊。昭和の太宰治から明治の夏目漱石にさかのぼる24人。

上野千鶴子・編「「女縁」を生きた女たち」岩波現代文庫
20年前の、著者と電通ネットワーク研究会による「「女縁」が世の中を変える」を母体に?部・?部を書き下ろし付加した新版。

草森紳一「不許可写真」文春新書
第2次上海事変から日中全面戦争へと突き進んだ時代、陸軍・海軍・内務省・情報局の検閲をかいくぐり残された、毎日新聞社秘蔵の不許可写真を収録、解説する。

多田富雄「生命へのまなざし-多田富雄対談集」青土社
今年の小林秀雄賞「寡黙なる巨人」の免疫学者多田富雄が、多くの文化人らと、免疫、自己、老化、脳死と臓器移植、ウイルス、エイズなど、生命科学と文化の接点を語り合った対談集。

・「シャガール展-色彩の詩人-」西日本新聞社
広河隆一編集「DAYS JAPAN -この地球の子どもたち-2008/10」ディズジャパン

―図書館からの借本―
李禹煥「時の震え」みすず書房
「今日という地平では、一つの塊のような対象、一つの出来上がったメッセージと向き合うことは堪えがたい。物も人も、在って無きがごとくの在りようが好ましい。むしろ向き合うことなしに、間を意識すること、ひいては見えないがより大きな辺りの時空間をこそ感知し、そこにおのれを解放したいのである」 2004年刊。

・別冊環「「オリエント」とは何か」藤原書店
西洋史でも東洋史でも捉えられない、世界史の中心としての「オリエント」。世界が大きく変動する今日、オリエントの重要性を問う特集。2004年刊。

・別冊環「子守唄よ、甦れ」藤原書店
人々の暮しや生活の中から生まれた心の唄であり魂の伝承でもあった子守唄が、なぜ喪失してしまったのか。子どもたちの未来に向けて、今こそ、人間にとって子守唄とは何か、そして子守唄をどうやって甦らせるのか。2005年刊。

この2週間ほどは読書どころではない日々が続いた。よって借本もいつもより少なく、それもほとんど手つかずのありさまで、先月から借りていた丸山健二の新作「日と月と刀」下巻をそのまま借り越して、昨夜やっと読み終えたばかり。

この小説、短い一節々々を2行ほどの文を小見出しよろしく冒頭に掲げ、そのまま描写を進めて、延々と読点で数珠繋ぎに繰り延べ、一節の終りまで句点をまったく打たないという型破りの文体で、それが却って流し読みを許さない。声こそ出さねどブツブツと音読するが如くで、上下巻読了にまあ時間の要したこと夥しいが、それだけにずいぶん愉しめたともいえる。

読み終えてから、小説の動機となった作者不詳の「日月山水図屏風」が、女人高野とも謂われた河内長野の天野山金剛寺に伝えられてきたのを知った。この絵、寺では毎年5月5日と11月3日の二日のみ特別拝観しているという。近く是非まのあたりにしてみたい。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」−12

  捨られてくねるか鴛の離れ鳥  

   火おかぬ火燵なき人を見む  芭蕉

火燵-こたつ-

次男曰く、「捨られてくねる」を、オシドリなら死別だろうと見定めて、火のない炬燵に寄って亡き人を偲ぶ情に移した句だが、いきなり話を拵えているわけではない。

「鴛の離れ」から「火おかぬ火燵」まず思い付いたところがみそである。火がなければ火燵も無用を嘆く、と考えれば俳になる。

こういう句を、怨みかこつ前句の姿から思慕の情に転じたなどと読んでは、屋上屋を架す式の付伸しにすぎないことは容易にわかる筈だが、諸注殆どそう読んでいる。

「是は夫に離れたる女などの、夫を慕ふ心也」-越人注-、「火置ぬ炬燵といふに鴛のしば啼寒さを見せたり。‥故人を算へ居る老の身の侘しさ、其余情句外にあふるるものならし」-升六-。

また、「前句捨てられてとあるを、死にあらずんば離れざる禽故、ここには無常と取りて、亡き人を見んとは作れり。‥今は其人既に亡せて其物猶存し、旧物眼に入るにつれて深感の胸に添はるところを云へるなり」-露伴-、などと。


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