西南に桂のはなのつぼむとき

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INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― 雨に流れた運動会

一昨日の日曜日の、生憎の雨で流れた運動会が、代休の昨日を挟んで、今日行われた。

平日開催にもかかわらず、客席に父母たちが多いのは意外だったし、7時半の開門前、場所取りにもかなりの人数が詰めかけていたのにも驚かされた。

保育園時代の狭い園庭で行われてきたものとは、スケールもなにもかも大違いで、小一のKAORUKOにとって初めての本格的な運動会に、連合い殿も気合いが入っていて、日曜の朝、中止となった途端、仕事先の上司にこの日の休暇を申し出ていた。
なにしろ居住マンションのベランダと学校の正門が道路を挟んで対面しているという至近距離なのだから、私も出向かないわけにはいかないので、重い腰を上げてはみる。

だが、広いグランドに大勢のチビッ子らが群がりあるいは並びしているその中から、我が子を見出すため立ち上がったりやら所を変えたりと、周りの者らが躍起になるほど、此方は興醒めしシラケてしまって動こうともしないものだから、競技や演技のさなかもKAORUKOの姿を見出せぬまま終ってしまう。

たった4人で駆けっこしたのさえ、いつ走ったのか見逃してしまう始末だから、親父失格もいいところである。

流行りの「羞恥心」や「ポニョ」の音にノって踊るのに、毎夜のように興じては、盛り上がりを見せてきたKAORUKO、自分の子ども時代を想い出しつつ、それと重ね合わせるように、わざわざ仕事も休んでほぼ一部始終を観戦なされた連合い殿、そして、娘の出番あたりを見計らっては、そのたびに出向きはしたものの、ついぞその姿を見出し得なかった親父の私と、濃密さのずいぶんとかけ離れた運動会だが、ともかくも終幕を迎えたのだった。

あとで聞いた話だが、この学校の運動会、3年続きの平日開催、雨に流れてばかりだ、と。また別の話では、晴天下の日曜開催などもう何年も前のことで、ずっと雨に祟られ放しだ、とも。
昔から運動会といえばこの時季が定番だけれど、どうしてこんなに雨の多い頃に習慣化したのやら‥。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」−23

   なかだちそむる七夕のつま  

  西南に桂のはなのつぼむとき  羽笠

次男曰く、名残の月の定座-二ノ折表十一句目-には少々早すぎるが、前句が七夕を以て秋を起していれば、ここしか月のつとめ様はない。月の字は出さず、桂の花が「つぼむ」-莟む-と作っている。

前句の「そむる」に匂いで応じた工夫らしい。月花一所と見ても相応しい作りだが、花は、定法どおり名残の裏で別に出している。

七日頃の月は上弦宵の月で、方角も西よりやや南寄りに眺められる。地上にまだ物の影は生まず、新月のそれとわかる太り加減を、「つぼむ」とは云い得て妙だ。

句には「和漢朗詠集」七夕の部、菅原輔昭の詩句が踏まえられているかもしれぬ。「詞ハ微波ニ託シテ且遣ルト雖モ、心ハ片月ヲ期シテ媒ト為サント欲ス」。前句の読取りに相応しいだろう。樋口功の注釈はこれに触れている、と。


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