蘭のあぶらに〆木うつ音

080209008

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― ご免なさい、おケイさん

アーア、またも失敗である。
こんどこそ是非この機会にと思っていた、河東けいさんのひとり芝居「母」を、またも見逃してしまった。

ワーキングプアの社会問題化からにわかに注目を集めた戦前のプロレタリア作家小林多喜二の母を描いたもので、原作は三浦綾子、脚色と演出をふじたあさやが担当、もう十数年前から全国を廻って演じられてきたものだ。

たしか10月の公演だったが、はていつだったかと気になりだして、午後になって原稿作りも一段落したところで、ここ3ヶ月ばかりの間に、机の上に溜りに溜った書面や資料などの整理を始めたのだが、件のチラシを見た途端、顔色を失ってしまった。公演は10月4日、先週の土曜だったのだ。これからも近場で観る機会などそう多くはないだろうに、まったくドジな野郎だ、「おケイさん、ご免なさい」と、心のなかで手を合わせる始末である。嗚呼!

もう一つ、高山明美の舞踊公演「水の環流」も同じ日にあった。こちらは夜の6時開演だから、仮におケイさんの芝居を茨木で午後3時から観て、その帰りに立ち寄ることも可能だった訳である。とはいってもこちらのほうはそう食指が動いたものでもなかったから、彼女には悪いが忘れてしまっていても後悔するほどのことはない。

もう一人、気にかかる御仁のことも書いておこう。遠藤久仁子さん、昔、中島陸郎さんとともに月光会に拠った役者の浜崎満氏と二人ではじめた、京都の二人だけの劇場「セザンヌ」の主宰者だが、この劇団の活動も今年でもう26年になるという。映画監督高林陽一のデジタルVシネマ三部作にも主要キャストで出演している彼女だが、いつも案内を戴いては眼を通すばかりで、いまだ見参の機会を得ていない。もういい加減に一度は足を運んでみないといけないな、と思っている今日この頃である。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」−24

  西南に桂のはなのつぼむとき  

   蘭のあぶらに〆木うつ音  芭蕉

次男曰く、「蘭のあぶら」とは蘭膏か。蘭-蘭草、フジバカマ-の花を以て香を練り、それを入れた灯油のことだ。

「楚辞」の「招魂」に「蘭膏ノ明濁、華容備ル」とある。それとも、蘭花を添加して搾った髪油のことか。諸注、多くは髪油と解している。

「楚辞」は蘭と桂を好んで対として用いる。蕉句は「楚辞」に想を寄せて付けたのではないかと思う。いずれにしても、蘭から搾油するというようなことは考えられない。一読錯覚を誘う作りだが、「蘭」の香を裁入れて「〆木うつ音」などと云えば、かくありたい夜長の興を一挙に現前させる。うまい。

露伴は、「一句は日の短きに夜をかけて油作りの槌の音をさすところを言ひたるまでにて、蘭桂の対を取りて静かなる夕暮に物の響を聞出したるが前句へのかかりなり」と云う。的確な詩味の読取である。

しかし句作りの実際に即して云えば、搾油の趣向は「つぼむ」に二義-苔む、窄む-を含ませ、奪って応じたからで、「〆木うつ音」が最も効く状況はそこにある。

似た例は、のちの「猿蓑」歌仙-夏の月の巻-に-、
  草村に蛙こはがる夕まぐれ   凡兆
   蕗の芽とりに行燈ゆりけす  芭蕉
  道心のおこりは花のつぼむ時  去来

この「芽」と遣い「ゆりけす」と遣ったところに見込を立て、「花のつぼむ-苔-時」と作ったのはうまい。

句にはもう一つ見どころがある。前句は兼月花の上乗の作とも読める。
芭蕉が、素材のもつれを承知のうえで、「はな」から「蘭を」を取出し、油ならぬ香を搾る体に作ったのは、虎穴に入って虎子を獲る、あるいは毒を以て毒を制するたぐいの手立で、前句が臨かせる。正花の心を絶つ工夫だろう。

手練れ俳諧師の本領を発揮した句と云うべく、ようやく興行も佳境に入る気配がある、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。