賤の家に賢なる女見てかへる

Alti200601026

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― 近しさという保障

昨日の昼、ちょうど12時頃だったろう、ベランダの外から不意に「お父さぁーん」と声がした。

KAORUKOの声に似ているが、学校に居るのだから違うんじゃないかとは思いつつベランダに出てみると、校舎の4階の窓から顔を出し、此方に向かって嬉しそうに手を振っている彼女の姿が眼に飛びこんできて、ちょっと面喰らってしまった。彼女の傍には同じ組の男児が居て、ホラ、お父さん出てきたよ、てな調子で得意気にしているのが、声は聞こえずとも此方に伝わってくる。

1年生の教室は1階だから、なぜ5年生や6年生の教室がある4階に上がってきているのか、まるで見当もつかないけれど、対向車線だけのさして広くもない道路を挟んだ5階と4階だから、ほどよく間近に向き合った態になる。彼女にすれば偶々4階に上がってきて、ふとそのことに気づいて、なんとなく愉しくなって喚んでみたのかな、と。

だが、通常の親子なら、父親がのほほんと家に居ることはまずない。隠居同然の身なればこそ、こんな芸当も成り立つのである。

考えてみれば、これほどの近しさにある環境というものはそうあるものではなく、ずいぶんと特殊なものである。昼日中ほとんど家に居る父親の存在を、この出来事のように文字どおり近しく感じながら、彼女は6年間の学校生活を送っていくわけである。このことには思いがけぬほどの大きな意味があると云えそうだ、親和力という保障性において。

KAORUKOの生来の気質はと云えば、人一倍臆病であり、人見知りも強く、まさに慎重居士である。だからであろうか、その反面、彼女は他者への関心は非常に高いものがあり、直接の接触はなくともよく観察しているらしく、上級生であろうと顔や名前を驚くほどに覚えていたりする、そんな変わった子である。

この「変わった子」というのは、気をつけてやらないと、とかく周りからは逸れ-ハグレ-者にされやすい。
明るく素直に、一定の節度を保ちつつも自分自身を露わにできなければ、人との交わりはひろがらないし、深まりもしないものである。

どんな時でも、どんな場面でも、彼女自身おおらかに開放的になるには、超えるべき閾値はかなり高いものがあり、人であれ場であれ、馴れ親しむため多くの時間を要する、そんな彼女であってみれば、集団の中で自己形成を遂げていかねばならない学校生活で、まさに眼と鼻の、これほどの近しさのなかにいつも頼りとなる身内-私-が居ること、その安心が、この閾値をぐんと下げさせていく力へと働かせることも可能な筈なのだ。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」−25

   蘭のあぶらに〆木うつ音  

  賤の家に賢なる女見てかへる  重五

次男曰く、燃灯油のなかから染み出てくる蘭の芳香のように、賤家に思いがけぬ賢女が見つかった、と云っている。

蘭は四君子の一、油は卑近の用。そこに見込を立て、おのずから現れる美質二つを寄せて付けた。「見てかへる」と、粘らず、そして見届けの態に作ったところに、いささかの工夫がある。

情景は、音が聞こえてくるのは賤の家の中からと考えてよいが、〆木打つ人ただちに其の女と云っている訳ではない。

「見てかへる」という云回しは、都に帰って太守に報告しようとか、いずれあらためて訪ねてこようとか、その程度には物語の含を覗かせているだろうが、具体的に何かの俤と云うわけではない。貞女伝だの烈女伝だのの人物をこの付句から探ることは全く無用である。却って句をつまらなくする。

かといって、蘭の油は賢女に似合とか、油搾りは貧家のわざとか、気分によって読まれてもこれまた困るが、諸注は「蘭のあぶら」を女の髪油と見込んだせいもあって、それやこれや解釈を思い入れでこじつけている。「見てかへる」の働きを見失ったからだろう、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。