寅の日の旦を鍛治の急起て

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NFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― この母と、この子

藤原書店の別冊「環」シリーズ「子守唄よ,甦れ」-05年5月刊-を読む。

「暗きより暗きに移るこの身をばこのまま救う松かげの月」

松永伍一の「日本の子守唄」-1964年初刊-が、角川文庫版となって初版されたのは84-S59-年だったようである。とすると私が読んだのもそれ以降のこととなるが、そのずっと前に読んだ彼の「底辺の美学」の記憶とごっちゃになってか、もっと昔のことだと思っていた。

この短歌、松永伍一の母が85歳で亡くなったその辞世の歌だという。
字句どおり素直に読めば、自ずと歌の意は通ずる。「暗いところから暗いところへ移っていく、この私のような極悪非道な人間こそ、如来の慈悲に救われるでしょう‥。親鸞悪人正機を理論的に解明したりとか、分析したりするようなことではなくて、自分の生きてきた悪をこのままの状態で如来様は見て下さるという意味でしょうか。」と、松永自身、誌上の対談で言及もしている。

ただそれだけのことなら、とりわけ強い印象も残らずにやり過ごしてしまったところだが、ここで彼は一つの具象的な像を差し出すことで、歌の内実に迫り、この私は震え、込み上げてくるものを禁じ得なかった。このところ読みながら感きわまって突如涙する、といったことが多くなったおのが姿につくづく老いを感じる始末だ。


彼はこの辞世の歌に「間引きの背景が見えてくる」と語る。

「私は戸籍上8番目の子でも、上のほうが途中で死んでましたから、生き残っているのは私が5人目なんですけれども、8番目のわが子を間引きしそこねて、それで私が生まれたんです。母は44歳でした。間引きというのは、話は聞いてましたけれど、子守唄の調査をしているうちに、意外と間引きの歌に出会うわけです。育てられなくて間引きしたり、この子は育つ力を本来もたない子だとわかるから間引きしたり、‥ その時は『日本の子守唄』によそ事のように書いていましたら、今度は母が亡くなった時に、一番上の姉から、『あんたはほんとは生まれてくるはずじゃなかったのよ。お母さんが間引きしようとして、水風呂に入ったり、木槌でおなかを叩いていたりしてた』というのを聞いた時、ああ、子守唄を書いていてよかったなと思いました。そのことを先に聞いて本を書いたんじゃなくて、子守唄の本を書いてから、その母の悲しみにふれる結果になって、‥」

「母が亡くなる少し前に、故郷にちょっと見舞を兼ねて帰りました時に、二人の姉と兄と私と計4人生き残っておりましたから、その4人で座敷の真ん中に寝てた母親を布団のまま縁側に連れ出して、母親の体から生まれ出た4人で、生きてるうちに体を全部きれいに拭いてあげたんです。その時、ものすごくエロチックな感動を覚えましたね。母親のここから生まれてきたんだなという。これは特別な感動でした。」


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」−29

   つゞみ手向る弁慶の宮  

  寅の日の旦を鍛治の急起て  芭蕉

旦-あした-、急-とく-起-おき-て

次男曰く、虚に虚を以てした相対の付に、更に重ねて絵空事を付ける訳にはいかない。促されて取出した実情のある作りには違いないが、さて「寅の日」がわからない。

評釈は、弁慶の宮の縁日だとか、鍛治の吉日だとか、あるいは猛虎を弁慶に思い寄せた付などと解している。中で筋らしいものがあるのは弁慶に虎の連想ぐらいのものだが、そんなくだらぬ連想に頼ったとしたら、芭蕉も相当なへぼだったということになる。

月院社何丸の「七部集大鏡」は、「寅は猛獣にして風を司る故に、寅の日を祝ふは刀工の常なるべし。寅年寅月寅の日に打たる刀を三寅と号して、伊豆権現に納めしとなり」と説く。尤もらしい俗説で、刀工の吉日はむしろ庚申だ。第一、句は刀鍛冶ときまっているわけではない。野鍛治であってもよい。

その程度のことを云うなら、前句の余情として静御前から寅御前を連想したとか、あるいは前句を東北-寅-の方位に見定めたとか考えてもよさそうなものだが、それすら思い付いている注はないようだ。

結局、無難にやり過ごせば、「寅は泰の卦に当り、陽気盛んにして、武に相応しき故に、かりそめに取用ゐられるしならむか。‥寅の日を尚ぶこと当時の俗習なりしならむ」と見る露伴の説に与することになる。つまり、はこびの虚を実に執成すためのおとなしい遣句と見るわけだ。

柳田国男の「木綿以前の事」にも、三句について、「さういふ日-はやり正月-に撫子を飾りにすることも空想なれば、次の句の弁慶の宮とても実在ではない。もしもそんな宮があったら鼓を打って手向けるだろう位な所で、此一聯の句は出来たのであった。それをぢみちの方へ引戻さうとして、寅の日の一句は附けられたものと思ふが、尚興味はそゞろいて次の南京の地といふ句になったのである」と云っている。これも「寅の日」を気分による思付以上のものではないと眺めている。

どうも釈然としない。付けた人が芭蕉であるからとりわけこだわりたくなる。
「三人言エバ虎ヲ成ス」-戦国策-というよく知られた諺がある。起りは、魏の龐葱-ホウソウ-が趙都邯鄲に人質として送られた時、二人まではともかく三人が噂をすれば、市中にいるはずもない虎でも現実にいると思いこむようになると弁疏して、彼に対する。讒言の事実無根であることを魏王恵に訴えた故事にもとづく。

「寅の日」の思付は、どうやらこのあたりらしい。芭蕉は、前が二人までも見えすいた嘘をつくから、三人目は信じてもらえる嘘をつこう、と云っているのである。取合せるに鍛冶屋を以てしたのは、前句の鼓打つのひびきを利かせ、弁慶に打たせるなら鼓よりも鉄がふさわしい、という軽口の応酬だ。刀工などと物々しく考えると解釈はへぼ筋にはまる。

有り様は鍛治の早起き、つまりごく平凡な勤労の讃美である。この力強い槌音には民俗の実情がある筈だから、よく耳を澄ませてごらん、と句は云いたげだ。「寅の日」と絶妙に起して、転合はいいかげんにして俳諧の本筋に戻れ、とは景情兼ね備えた捌きぶりで、即興の機心もここまでくれば冴えている、と。


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