寂として椿の花の落る音

Santouka08110809

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

秋も深まりゆくころ
大阪にてはひさかたぶりの
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火
公演ご案内とともに ―――


「もりもりもりあがる雲へあゆむ」と最期の一句を遺し
行乞放浪の俳人山頭火が、伊予松山の一草庵にて人知れずひっそりところり往生を遂げたのは、昭和15年の秋、10月11日の未明のこと
享年59歳とされているが、当時は数え年、彼の誕生は明治15年12月3日だから、今様に満年齢でいえば57歳ということになる
時代の様相もずいぶんと異なり、単純な比較などたいした意味を持とう筈もないのだが、今年64歳になってしまった私などは、彼の生死に比しすでに6年も余って生き、世間に恥を曝しているかと思えば、おのが生きざまを省みては汗顔のかぎり
身の縮まる思いに襲われもするが、そこは三つ児の魂ゆえか、はたまた河原者の類か、演らずにおれぬ妄執が性懲りもなくこの身に擡げてきては、このたびの企てとなる

孤高の俳人と賞され、旅に生き放浪の果てに生涯をまっとうしたとみられる山頭火も、その実相はといえば我欲の人、妄執の人であったともいえる一面がある
少年の頃から文芸の道を志すも挫折を繰り返し、自身が書き遺したように破滅型の半生をおくった挙げ句、満42歳にしての出家ではあったが、なお苦悩は深く、自暴自棄の果てに服毒自殺を図ったりもしている
山頭火の内奥にひそむ欠落感、欠けた心の、その因るところは‥
といえば、なによりもまず挙げられるべきは、満9歳の春とまだ幼き頃の、母フサの投身自殺であったろう
非業の死でもって生き別れとなった母への追慕の情は、山頭火の遺した日記や散文の随処でさまざま触れられており、人みな彼の果てなき放浪流離いの生涯に、母の面影を慕ってやまぬ傷心を見いだす

だが、身内の非業の死といえば、あまり知られていないが、山頭火にはもう一人、弟二郎の自殺がある
山頭火より5歳下の二郎は、就学前の6歳になったばかりの春、どういう家内事情であったかしれぬが、他家へと養子に出され、さらに長じてのちは、父竹治郎の放蕩を元凶とする大種田最後の砦であった種田酒造の破産によって、養子先を追われるという災厄に見舞われる
依るべきものとてなにもなかった孤独な彼は、幼くして別れたままの兄を頼って、一時は熊本の山頭火の許に身を寄せるが、山頭火もまた身過ぎ世過ぎの零落の身であれば、弟の寄生を受け容れられる筈もなかった

二郎は、大正7年6月、人知れず郷里近くの愛宕山中-現岩国市-で縊死した
その遺書に
「内容に愚かなる不倖児は玖珂郡愛宕村の山中に於て自殺す
天は最早吾を助けず人亦吾輩を憐れまず。此れ皆身の足らざる所至らざる罪ならむ。喜ばしき現世の楽むべき世を心残れ共致し方なし。生んとして生能はざる身は只自滅する外道なきを。」と認め
「かきのこす筆の荒びの此跡も苦しき胸の雫こそ知れ」、外一首を遺す
遺体発見は約一ヶ月後の7月15日、遺書の末尾に記されていた住所先の山頭火に知らされ、彼は直ちに遺体の引取に発っている
「またあふまじき弟にわかれ泥濘ありく」 山頭火
二郎はこのとき満31歳、山頭火は満35歳
大種田没落の有為転変のうちに翻弄されるがまま、悲劇の人生をおくった薄幸の人であった

山頭火身内の、二つの自死
幼き頃の母の自死は、追懐、追慕の対象となり得ても、弟二郎のそれは、山頭火にとって慚愧の念に苛まれるばかりのもの、ひたすら意識下に潜ませ閉じ込めおくべきものではなかったか
弟の自死について、山頭火はとくになにも書き残してはいないが、彼を不安のどん底に突き落としたであろうことは想像するに難くない
この頃は、彼もまた死の誘惑に囚われつつ、酒に溺れては泥酔の数々、狂態の日々を重ねるばかりであったことが、日記や散文の処々に覗えるのだ

そして一年後の大正8年秋、山頭火は突然、熊本に妻子を置き去りにしたまま、憑かれたように東京行を敢行
以後、あの関東大震災の騒擾のなかで憲兵隊に捕縛、投獄される事件を掉尾とする、単身のままの、大都会にただ埋没し彷徨しつづけるといった、東京漂流の数年間を過ごしている
おのが身内の不慮の死に遭って、山頭火自身は言わず語らずの、というより語りえぬというべきであろう弟二郎の縊死が、彼の心にどれほどの衝撃を与え、無意識の闇にさらなる影を落としたのであろうか
などと想いをめぐらせていると、山頭火の破滅的ともいえる単身上京、東京漂流へと駆り立てたものが奈辺にあったのかも、仄見えてくるような気がするのである

生者必滅の倣い、老少不定
いったいなんの宿縁か、9月、この我が身に思いもよらぬ凶事が降り来たった
不慮の事故、逆縁の、死
RYOUKO、39歳、いまだ独り身だった‥‥。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」−09

   漸くはれて富士みゆる寺  

  寂として椿の花の落る音  杜国

次男曰く、「寂」はジャクか、それともセキか。仮にジャクと読んでおく。

諸注、雑の句に季-春-を持たせ、庭前の景をあしらった遣句と読み過しているが、花木の栽培には時代の流行があり、椿は桜にもまして当時最ももてはやされた花木だということに作分がある。とくに寺庭に椿はつきものである。
「音」の韻字は、前句に「みゆる」とあれば当然の工夫だ。

万葉のころからよく知られた椿が園芸品種として注目されたのは大凡桃山頃からで、とくに後水尾天皇の元和年間に改良・栽培が盛んになり、徳川秀忠は諸国の品種百椿を江戸城内に集め植えさせたという。図譜の類もこの頃から出版された。

「雲凝り霧重うして椿の落ちたる、此花の風情、此境の光景、まことに宜しき寺の静けさ庭のさまなり」-露伴-、これは解釈ではない、と。


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