庭に木曾作るこひの薄衣

Alti200601034

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -5-

吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

太宰治と「斜陽」
太宰治の作品が現在でもよく読まれ続けているのは、やさしい言葉で書かれているように見えて、本当は少しも啓蒙家になったりしない力量にあると考えられる。太宰の言葉で言えば「おいしい料理」、彼自身は落語から学んだと言っているが、それだけ文体がぴたりと決まって凝縮されている。

漱石もそうだが、優れた作家の作品には、人物の微妙な心の動きなど、読む者に「これは自分にしか分からないはずだ」と思わせるものがある。しかも、多数にそう思わせるのだが、それが名作や古典のもつ普遍性というものだ。

太宰治の作品まではもう既に古典の条件を備えていると確言できるが、それ以後の作家の作品が、古典と呼べるほどの名作かどうかをはっきりと言うことはできない。それはつまり、私自身と地続きな感じがどこかに残っているからだ。

柳田國男と「海上の道」
国家の起源、日本人の起源について柳田が注目したのは、中国の殷の時代から宝貝が通貨として使われていたことだった。宝貝の分布調査からすると、中国大陸の海岸から内陸の住人が琉球宮古島などへ宝貝を取るため船でやって来たと考えた。それらの人々が琉球諸島に定着し、さらには南九州に到達し、次第に東へ移動していき、日本列島に分布するようになった、と。

海上の道」でもう一つ主要な点は、島々の各地にある久米と呼ばれるものはコメを表し、稲作がもたらされた痕跡なのだということである。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」−12

  雉追ひに烏帽子の女五三十  

   庭に木曾作るこひの薄衣  羽笠

次男曰く、茶摘女を、白拍子姿に見立て、雉追遊びと戯れる風狂の御仁が園主なら、その庭作りはさぞかし木曽路を模した桟-かけはし-の一つも取入れてあるだろう、と付けている。

「木曾のかけはし」は「能因歌枕」に既に見えるが、「女のもとに遣はしける、中々にいひもはなたで信濃なる木曽路のはしのかけたるやなぞ」-拾遺・恋、源褚光-など、女の移り気を恨む男の歌だとというところに特徴がある。

「庭に木曾」を作れば懸橋-恋の心-の一つも工夫せぬわけにはゆくまいが、「女五三十」では選取り見取り、恨み言どころではないでしょうなあという諧謔がみそである。「こひ」-恋=濃-を移して「薄衣」と治めたゆえんだ。懸橋をめぐって男女の位相を翻している、と。


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