なつふかき山橘にさくら見ん

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INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -5-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

折口信夫と「日琉語族論」
西欧的な言語年代学によると、7000年前頃まで遡れば日本-本土-語と琉球語は同じ所に行きつく-服部四郎説-。折口は本書において、言語の構造を比較しながら、両者はどこまで遡れば同じかを内在的に考察している。
一つに、古代以前の日本語には「逆語序」の時代があった、ということ。
もう一つは、「逆語序」の考えをひろげたとも言えるが、日本語と琉球語では空間的な捉え方が違っている、ということ。日本語は、東京都→千代田区→一ツ橋と大から小空間へ、琉球語ではこれと反対に小から大へ。折口は、古代以前まで遡れば、日本語も琉球語と同じ、小から大へ、だったと指摘した。

例えば、琉球語で「太郎金」というように人の名前に「金」という尊称を付けるが、それは本土語で「金之助」や「金太郎」というのと同じ尊称の接尾-頭-語であるが、かように「逆語序」は普遍的にさまざまなことについて言える。
これを枕詞に敷衍すれば、「春日-はるひ-の春日-かすが-」のように地名が同じ地名の枕詞になっていたりする初期の形は、「逆語序」と「正語序」が合致した「同語序」の時代を示すもの、と私は考えた。−「初期歌謡論」

中原中也と「在りし日の歌」
中也の本質的な仕事は、虚無感と叙情性が融合し、「呪われた詩人」の素顔を覗かせた時に生まれている。
詩の往還、中也の詩は「還り道の詩」と言える。難解な言葉でひたすらに新しい表現や実験をめざす「往路の詩」ではなく、徹底して突き進んだ地点から読者の意識の方へ、生活の現場の方へと戻ってくる「還り道の詩」だと。

「骨」
ホラホラ、これが僕の骨だ、/生きてゐた時の苦労にみちた/あのけがらはしい肉を破って、/しらじらと雨に洗われ/ヌックと出た、/骨の尖
‥‥‥‥
故郷の小川のへりに、/半ばは枯れた草に立って、/見てゐるのは、/―――僕?/恰度立札ほどの高さに、/骨はしらじらととんがってゐる。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」−13

   庭に木曾作るこひの薄衣  

なつふかき山橘にさくら見ん  荷兮

次男曰く、山橘はヤブコウジ-マンリョウ属-の古名である。自生の常緑小低木で、江戸時代初ころから園芸品にもなった。末夏に白色五裂の小花をつけ、球形の実を結び、冬になると核果は鮮紅色を呈する。

万葉集」には5首見えるが、勅撰では「古今集」に1首あるのみで、橘-花橘-のもてはやされ様とは較ぶべくもない地味な存在で、歳時記・博物誌の類にも「和漢三才図会」を除いて、江戸末に至るまで挙げたものを見かけない。現代は「藪柑子」として掲げ、その実を冬の季に扱い正月の縁起物にする。

「あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ」-万葉・巻四相聞、春日王-

「わがこひをしのびかねてはあしひきの山橘の色にいでぬべし」-古今・恋、紀友則-

赤く熟れる実を恋の序詞として詠んでいる。荷兮は「こひの薄衣」にふさわしいのは花橘ではなく、山橘の花だと云いたいのだろう。

「羅-うすもの-」を季語として採上げるようになったのは江戸中期からで、「冬の日」当時はまた約束としての認識はなかつた。況んや「こひの薄衣」をただちに軽羅と見做すわけにはいかないが、「続後拾遺集」-16代-の夏部に、
「形見にと深く染めてし花の色を薄き衣に脱ぎや更ふらむ」-源重之女-ょ収める。

荷兮が「こひの薄衣」から夏の季を引出したのはあるいはこの歌を知っていて証としたのかもしれない。

諸注は「山橘」に迷っている。あるいは花橘と同義と云い、橘類の惣名と云い、牡丹の異名と云い、藪柑子の青い実と云う。「なつふかき山、橘に‥」と読む者もある、と。


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