しづかさに飯台のぞく月の前

Alti200601007

Information-四方館 Dance Café 「五大皆有響」-

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -7-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

志賀直哉と「暗夜行路」
なぜ、志賀直哉は大家と言われるのか? その理由は、日本文学には伝統的ともいえる家庭小説を書いていながら、文体が私小説的な情念に陥らないためだ、と言えよう。
この作家は西欧的な教養や知識が自分の欲望の自然さとひとりでに合致しているかのように血肉化している文体で、作品が書けるのだ。
優れた作家だが、彼の文体を形作っているのは、判断力の屈折を生活上必要としなかった出自の無意識だと思える。
祖父と母の過失の結果、生まれた時任謙作が、結婚してから妻の過失に苦しむことになる、その「暗夜行路」の筋の展開は、親と子の葛藤、男女の軋轢など、近代文学の主要なテーマが私小説の規模で、単純な形で示されている。
謙作は作品の最後で、大山の自然によって慰撫され、精神の平衡を得ることになる。人間のエゴとエゴの間に自然が介在して、軋轢を溶かしてゆく。ところで、気になるのは、主人公は、妻が密通したということの何に苦しんだのか、女性は自分に背かないと思っていたのが裏切られた、ということに傷ついたのではないだろうか。
もし、そうでないのなら、妻との葛藤が、今ある形よりも、さらに一段深い形で表されてくるはずではないか。ここから、もう一度、自我が夫婦ともにぶつかり合うところも、深く突き詰められるのではないだろうか。
この小説では、そうなる前に、人間と人間の精神的な葛藤を、自然を介在させることによって溶かしている。

田山花袋と「田舎教師
花袋は、日本で初めて旅の概念を近代的に新しくした作家だ。それまで、精神的な動機から旅をした日本人はほとんどいなかったと言ってもいい。西行芭蕉は、といえば、西行には高野山への寄付を集めるという用件が、芭蕉は各地の俳句愛好者に呼ばれ指導する、といった実際的な目的があって旅をしたとも考えられる。
花袋は、近代の鬱屈から逃れ、精神的な開放感を得るために旅をした。彼の近くにいた北村透谷や島崎藤村柳田国男たちも花袋から近代的な旅を教わったと言っていい。
似たような意味で、精神的な慰謝を求めて、初めて散歩をしたのは国木田独歩だ。
田舎教師」における、自然の草や花についての描写は、過剰と言ってもいいほどに細密で詳しい。その過剰さは逆に魅力なのだ、それが独特な叙情を生み、作品の魅力になっていると思える。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」−28

  しづかさに飯台のぞく月の前  

   釣柿に屋根ふかれたる片庇  羽笠

次男曰く、秋四句、釣柿は晩秋の季語、甘干・烏柿-あまぼし-・吊し・白柿・枝柿・ころ柿などとも云うが、「毛吹草」や「増山の井」にはまだ「甘干」しか載せていない。「釣柿」の名が見えるのは「本朝食鑑」-元禄8年-あたりからか。羽笠の句は早い使用例である。

釣柿で屋根を葺くことはない。釣柿と屋根「ふかれたる-葺かれてある-」片廂との取合せと読んでも、下12文字は徒事-ただごと-である。句意は、大切に守るために釣柿に屋根を葺いてやった-ように見える-、としか解きようがない。「ふかれたる」は扱の情を持たせた表現である。景としては片廂に葺いた粗末な家の軒に甘干が吊してあるというだけのことで、先の「水のみくすり」同様くつろぎを持たせた云回しだ。表現の曲を当てたのは住む人の生活の奥ゆかしさを推し測ったからだとも考えられるが、じつは前句の情を汲んだ工夫だろう。

前句は素材と云い語法と云い、中世和歌の一節で、たとえば、
「ふる寺の軒のひはだは草あれてあはれ狐のふしどころかな」-藤原良経-
をかすめて仕立てた、と読んでもわかる。たぶんそうだろう。歌の方がむしろ侘びていて、荒れはてた古寺の軒下ならぬ大寺の食堂に現れた狐がかえって面白く眺められるだろう。

羽笠は、そういう「きつね」の今宵の寝所が気になったから、「釣柿」に奪って軒をさし掛けたのだ。とすると、「片庇」を歌語から借りたというようなこともあるかもしれぬ、と思って調べてみると、
「しづの家はもとは蓮のかたびさしあやめばかりをけふは葺かなむ」-法性寺入道関白-
「山里の柴の片戸のかたびさし徒げに見ゆる仮のやどかな」-常磐井入道太政大臣-
作者は前が藤原忠通、後は西園寺実氏-公任の子-。藤原為家-定家の子-の歌集に、「あな恋しこやの戸いでしかたびさし久しく見ねば面影ぞ立つ」という例もある。
歌はいずれも鳥羽・崇徳時代以後のもので、片廂という歌語は概ね、中世の山里思想の産物と見ておいてよいのだろう、と。


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