露おくきつね風やかなしき

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Information-四方館 Dance Café 「五大皆有響」-

―表象の森― 即興における場面の創出

Contemporary DanceとともにImprovisation Danceは、いまやPerformanceやDance Sceneとしては何処でも見られる世にありふれたものとなっているのだろうが、我が四方館の即興- Improvisation Dance –は場面の創出にその力点を置いている点において、世にさまざまあるそれらとは趣を異にするものと私は考えている。

ならば、即興における場面の創出とはどのようにして起こりうるか、と問うてみたところで、そこに明瞭な答えを引き出すことはむずかしく、とても言葉になるものではない。

ただ言いうることは、5分であれ10分であれ、あるいは15分であれ30分であれ、またそれ以上に長い時間を費やす場合においても、Dancerがおのずと動きを紡ぎ出していく流れのなかで、その長短に関わりなく、かならずや新しい場面が生まれ出づる瞬間がやってくるものだ。それがDancerのあらかじめ意図したもの、計算の内にあったものだとしたら、その即興はたいして面白くもないもの、意外性を孕むものではない。

じつは、意外性に満ちた新しい場面が生まれ出づる瞬間が訪れた時、初めてそれまでなにほどもなく経過してきた流れが、Dancerにおいてもそれを観てきた者たちにおいても、共時的に遡行されて、あるまとまりをもった形象世界が、一定の相貌をもったもの世界が、立ち上がってくるのである。

ようするに、新しい場面へと転なる一歩が踏み出された瞬間に、即興世界は全体として初めて、それ以前とそれ以後に分かたれ、対照的であったり対比的であったりする二つの場面が一挙に生まれ出づるのだ。

即興- Improvisation Dance –が表現行為としてなされるかぎりは、この場面の創出がめざされなければならないとするのが、終始一貫私の立つところであり、四方館の即興世界であるが、さて、今宵のDance Café、いかなることになろうか。

<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>


「霜月の巻」−29

  しづかさに飯台のぞく月の前

   露おくきつね風やかなしき  杜国

次男曰く、「のぞく」の含みを見咎めた付である。人も月も飯台をのぞくよりは月だけにのぞかせ-人は寝にやって-、のぞきの新しい仲間は別に求める、という所作は芸になる。

句は、のぞいた狐の貌が、射し入る月のほかには気配もない食堂-じきどう-から、いっそう念入りに人間の影を消してくれる。何句がいいと前句もよく見える。評家は前句の姿も玄、この句の作も妙と眺めているが、そうではあるまい。

「前句に荒廃の大寺の風情無きにしもあらず。此句はそこへ付けて、覗くの一語を狐に奪ひたり。巣居は風を憂ひ、穴居は雨を悲しむことなるに、風やかなしき例の俳諧にして、老狐の月下に立つは云古したる談なり」-露伴-。「荒廃の大寺」とはかぎらぬがこれは良い、と。


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