名はさまざまに降替る雨

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―表象の森― 書物の森

小誌「月刊みすず」1/2月号の読書アンケート特集を走り読む。
各界諸家151名が2008年に読んだものから印象にのこる5点ほどを選んでコメントを寄せたものだから、まるで茫々たる書物の樹海をあてどなく徘徊しているかの感。

昨年の暮に逝った加藤周一の代表作「日本文学史序説」や、一昨年に逝った今村仁司の遺作「社会性の哲学」などが複数の人に挙げられているのが眼を惹く。また、越境する文化人類学者今福龍太の「群島−世界論」やC.レヴィ=ストロースとの共著となる『サンパウロへのサウダージ』も何人かに触れられており、その存在がきわだっている。

そんななかで一つ眼を惹いた書評を挙げておく。
生物エネルギー工学の松野孝一郎氏は、永井均「なぜ意識は実在しないのか」-岩波書店-、入不二基義「時間と絶対と相対と」-勁草書房-、原書のHenry.P.Stapp「Mindful Universe:Quantum Mechanics and the Participating Observer」の3書を挙げ、

「意識にあっては、常に前述語判断が先行する。二人称に配されたなにものかが「そのように」に立ち現れる、との一人称経験、運動が意識に先行する。永井は、前述語判断が運動であることを強調した。
述語判断は、恐らく、言葉を操るわれわれ人間の独壇場である。しかし、前述語判断に眼を転ずるならば、われわれの優位は消える。生物はいずれも、前述語判断に長けている。加えて、運動である前述語判断は、時間とのかかわりあいを避け難くする。
入不二による時間特有の変化とは、現実の現在-一つなるもの-が可能的な現在-多のなかの一つなるもの-に転生することを指す。現実の現在を、可能的な現在に繋ぐのが前述語判断である。前述語判断は生物を含む物質界に広く行き渡っている。
前述語判断の物質化、自然化へ先鞭をつけたのは、フォン・ノイマンである。自然化への礎を、量子論に由来する射、あるいはprojectionと呼ばれる操作に求めた。Stappは、このprojectionが、現実の現在を可能的な現在に接続する鍵であると見なす。それを物理的に実現する典型例が、神経細胞間の信号伝達を担うカルシウム・チャネルである。現実の現在に対してはカルシウム・イオンの波動性を、可能的な現在に対してはそれの粒子性をあてがう。」
と具体例を引きつつ3書を関連づけた解説をしており、その手際の良さに感心させられた。



<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」−08

  鞍置る三歳駒に秋の来て  

   名はさまざまに降替る雨  珍碩

次男曰く、青・赤・黒・白、葦毛・鹿毛・栗毛、馬の毛並の「名はさまざま」だ。三歳駒の成長ぶりを引移して、季節を追うて変りゆく雨の名をさぐる無常迅速の興につないでいる。秋の雨についても、野分の雨、豆花の雨、後の村雨秋霖、秋時雨など、いろいろ降替わる。

時候-秋-に天文-雨-を以てした付には違いないが、「名はさまざまに降替る雨」でも「降替る雨名もさまざまに」でも同じというわけにはゆかぬ。

露伴は「秋の天の定め無くて、ひと村雨のさつと降り来れるなり。御降りといひ、春雨といひ、卯花くたしといひ、五月雨といひ、今ここに卒然として至れる雨は秋雨なり。名もさまざま、降りざまも様々、サッと降来れる雨に、今や三歳駒の勇ましきに乗らんとして平首掻撫でたる人の、乱るる雲の足早き空を仰ぎ見たるさま、如何にも面白き附句なり」と云う、と。

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