入込に諏訪の湧湯の夕ま暮

Santouka081130009

―世間虚仮― Soulful Days-16- 脇見と無灯火?

いまどきのタクシーにはカメラ付のドライブレコーダーを搭載している車が多いと聞く。

RYOUKOが搭乗して事故に遭ったMKタクシーの車にもこのドライブレコーダーが搭載されていた。事故当時の映像記録によれば、甲-M-が右折しようとした際、対向車線よりの直進車1台を認め一旦停止した。乙-T-の車が激突したのは、その停止より2〜3秒後であった、という事実を、先日-2/2-のM運転手とMKタクシー労組委員長の両人と面談した際に知るところとなった。

さらに、彼らからの報告に拠れば、その記録画像を、西署の事故捜査官数名がMKタクシー北営業所において実況検分したのは事故発生から4日後、9月12日の午後3時前頃であった。この席で捜査官らはVideoを参考資料として任意提出するべく準備するよう指示して帰った、という。ところが、その指示に従いMK側はVideoを複製準備していたにもかかわらず、西署からの提出要請は一向なされぬままに、捜査はどんどん進められていったのである。

ドライブレコーダーの記録は、画像の改竄が比較的容易であることから、裁判において証拠能力の高いものとはされないとも聞くが、目撃者も無く、数日後の府警科捜班による事故現場の捜査と、事故当事者甲乙の供述のみというものでは、事故原因の真相は藪の中だ。実際に甲と乙の供述には矛盾が大きく露呈している筈で、この画像記録はその矛盾を明らかにしうる唯一の証拠でもあったろう。それを、あとを絶たぬ数多の事故処理に追われる捜査の、効率優先の習性からか、西署は一顧だにせず闇から闇へ葬り去ったのである。

事故当時の記録画像に語る、甲車の一旦停止から乙車との衝突までの時間は2〜3秒というのは些かアバウトに過ぎ、画像の詳細を再確認することで、さらに精確な時間を得られようが、いまは与えられたこの数値で事故原因を推測してみるしかない。

府警科捜班の鑑定によれば、衝突時直前の乙車の速度は70km/hだったと、N検察官から聞いている。衝突時点が甲車の停止してより2秒後なら40m手前、3秒後なら60m手前で、乙は甲車を現認しなければならないが、乙は20m手前で気づき、咄嗟にブレーキ動作に入ったが間に合う筈もなく空走のまま衝突したというのが、同鑑定の結果である。
ならば、その直前、乙は脇見運転! をしていたことになる。

さらにいうなら、甲は先行の直進車を見送ってから後、当然あらためて左方向を安全確認している筈である。停止して2〜3秒というのはドライバーにとってちょっとした時間だ。私も車を運転する者だが、ドライバーの習性としてこのちょっとした時間に、対抗車の有無、左方確認をしない筈はない、というものだ。だが、この時、甲は乙車の存在にまったく気づいていない。いったい何故だ? この事実は、乙の車が無灯火走行していた! との疑いが非常に濃いものとなる。

これらの推定が隠された事実だったとすれば、乙の直前の脇見運転さえなければ、さらに無灯火運転もなければ、事故自体避けられたかも知れず、また避け得なかったとしても重傷にいたるようなものであり得ず、いまごろRYOUKOは私らや友人たちを前に、鷹揚として変わらぬあの元気な姿を、子どもの頃から人好きの愛嬌者であったあの笑顔を振りまいているのに違いないのだ。

5日の午後、私はRYOUKOの母親と二人して、事故の賠償交渉を委任しているK弁護士の事務所を訪ねた。
被害者の遺族が、甲乙の刑事責任を問う刑事裁判において、両者をではなく、乙のみを告訴するというのは珍しいことではあろうけれど、警察における捜査の不備とこれを受けた検察の一般的な過失判断でこのまま進行するのを見過ごすわけにはいかないから、告訴状の下書きを準備して持参していた。文意が重複するが以下はその要点のみ。

<告訴状>

平成20年9月9日、大阪市港区波除1丁目、辰巳橋南交差点における、MKタクシーM運転の車-と、乙-T運転の車-の衝突により甲の搭乗者-RYOUKO-負傷、意識不明のまま同月14日午後7時14分死亡した交通事故につき、乙において重大な過失のある疑いが生じたため、精確な審理を尽くし、厳罰に処されんことを願いたく、これを告訴いたします。

<付記> 乙における重大な過失の疑い

「脇見運転」− 事故当時、甲運転の車に搭載されていたドライブレコーダーの記録によれば、右折の甲車が一旦停止して後、2〜3秒後に乙車が衝突しているという事実。
しかるに、乙は、甲車が急停止したのを見て、急ブレーキを踏んだが間に合わなかったと言い、その発見地点は衝突地点より20mほど手前であったというのが、科捜班による現場検証の鑑定結果と聞く。
この二つの事実は大いに矛盾している。乙車が70km/hで走行していた場合、甲車が停止して2秒後なら約40m手前、3秒後なら約60m手前でこれを現認しなければならないが、発見地点が20m手前であることは、必定その直前に脇見をしていたことになる。

「無灯火走行」− 甲は、車を一旦停止させて、別の直進車1台を見送っている。そしてその後あらためて左方向を確認するも、乙車を現認していない。
この事実は、事故発生が午後8時15分とされる夜間にも拘わらず、乙車が無灯火で走行していたと推定するに足るものである。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」−09

   名はさまざまに降替る雨  

  入込に諏訪の湧湯の夕ま暮  曲水

湧湯-いでゆ-

次男曰く、「入込-いりこみ-」は男女などの差別なく入混ること、室町頃より遣われた言葉らしいが、江戸時代には入込湯という名も生れている。句は「さまざまに」「替る」を見咎め、「振替る雨」を入りわる人にとりかえて-雨宿りも入込だろう-仕立てている。

下諏訪は古くから温泉で知られた、中山道の宿駅だが、湯が道べりに自噴しているため、往来の繁くなかった近世初には上湯と下湯を分け、下は旅人雑人誰でも自由に浸れる露天の入込湯とした。芭蕉も曲水も入ったに違いない温泉である。それというのも、東海道中山道を通して宿場がそのまま湯の町になっているところは下諏訪しかなく、東西の交通にわざわざ中山道を利用する楽しみの一つは、そこにあったと云っても過言ではない。「入込」と「諏訪の湧湯」は格別の親しみである。

二句は、天文-雨-に寄せた無常迅速の観相を巧みに旅の人情に移して、肩寄せ合うにふさわしい時分-夕ま暮-の見定めで治めている。「杣がはやわざ」の句もいいが、「三歳駒」以下、しみじみと、なつかしく、本情にとどくじつに好いはこびの流れである、と。

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