ほそき筋より恋つのりつゝ

Dancecafe0809285

―表象の森― Mondrian
「余白の芸術」-李禹煥-より

モンドリアンの絵画の軌跡は、まさに近代のDestiny Story-運命の物語-のようだ。

初期の絵画は、外界への素朴な関心の表明と言っていい。
風景や人物を愛情に充ちた眼差で眺め、あまりデフォルメせず朴訥に描いている。

それが次第に、あの「一本のリンゴを巡る試み」で解るように、対象物をその構造の法則や秩序を探るように整理していく絵に変わる。

そして対象物と向き合うことから離れて、初めから自立した構造としてのクールな画面があらわれる。いわゆる色彩と平面の構成による絵画の成立である。

ところが、晩年になると、ニューヨークシリーズが示しているように、この内面的な閉じた構成が揺らぐ。そして再び、外界としての都市の風景と連動する。ニュートラルな格子状の絵画-それはもはや自立した構成ではない-を試みるようになるのである。

そう、モンドリアンの後期までの作品は、見事な近代化への道程そのものではないか。
1. 外界との素朴な関わりから
2. 外界の一部を対象として捉えるようになり、
3. またその対象を構成概念とダブらせながら整理して、
4. こんどは構成概念だけの展開図として絵画が仕組まれる。つまり領域としての外界は、やがて限定された対象として切り取られ、そして内的な構成概念と二重写しの段階を経てついに対称性の消滅にとって代わり、内面の構成概念が全面化するということだろう。

モンドリアンはこの自立した絵画によって注目されたが、それが出口のない自閉空間であることに、誰よりも早く気づいた。
外部性のない絵画は、透明な認識のテクストではあっても、未知なもの、不透明な世界との出会いを不可能にする。外部性のない内面の全面化の歴史は、人間を窒息状態に追い込んだのだ。

格子縞に敷き詰められた無数の色彩が点滅する光景は、概念性や自立性を保ちつつも、自足的な完結性から一歩出て、外に向かって開かれた感じを与える。碁盤状のメカニックで華やかな画面は、ニューヨークという開放的で未知的な都市の様子とまさによいアンサンブルを成している。



<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」−12

  いふ事を唯一方へ落しけり  

   ほそき筋より恋つのりつゝ  曲水

次男曰く、前をホラ吹きと見定めて「ほそき筋より」と立向わせ、「落しけり」には「つのりつゝ」と逆っている。その趣向を恋としたところがうまい。

むろん、合せれば山伏から奪って、窮屈な恋にはまった男か女か、まわりの云うことなどには耳を藉さぬ体に読める。山伏に法螺貝は付物だとまず閃かないと、この奪い付の面白さはわからない、と。

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