巡礼死ぬる道のかげろふ

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Information−四方館 DANCE CAFE –「Reding –赤する-」

―表象の森― Seeing Red/感覚論
Memo:N.Humphrey「赤を見る」から

・自分自身において、局所的になにが起きているか、を問うときに求められる答えは
定性的で、現在時制で、一過性で、主観的なもの −<a>
ところが、外の世界でなにが起きているか、を問えば
 定量的で、分析的で、恒久的で、客観的なもの −b
この<a>と<b>の分離、感覚=<a>と知覚=<b>は、別個の道筋をたどって進化してきた。

・反応−感覚的な活動は、長い進化の歴史の中で、まるごと脳内に「潜在化-Privatise-」された。

・感覚は、気分の変化や幻覚剤に影響を受ける。
−メスカリンやLSDのような幻覚性の薬物は、知覚にはほとんど影響を与えないのに、感覚経験の質を変える。鬱状態のような内因性の気分の変化も、同じように感覚経験の質を変える。
ときには、感覚が完全に自己生成する場合もある。
−幻覚や夢の中で、鮮明な心像の核を成しうる
人は、夢の中で感覚を作り出せ、それは現象的にとても豊かなものである。
さらに、感覚は、他者の精神状態をSimulationする能力の鍵となる役割を果たしている、とも考えられる。
実際、身体表現としての感覚は、投影的な共感に、お誂え向きのように思える。

・意識には時間の「深さ」という特異な次元がある。
−現在という瞬間、感覚にとっての「今」は「時間的な厚み」をもって経験される。
−現在の経験には少なくとも二つの異なる時間が含まれるため、人はこれを、瞬間的に切り取った時間としてではなく、ひろがりのある時間、すなわち「今」と「今でない」要素の両方が統合された即時的な表象として経験する。−(N.Newton)
ひろがりのある現在−「意識の厚みある瞬間」


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」−18

  千部読花の盛の一身田  

   巡礼死ぬる道のかげろふ  曲水

次男曰く、「花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と願うのは西行ばかりではない、と付けている。

この歌仙のはこびは自ずとそこに誘うが、群参のなかには実際にも、一身田を死場所と定めて混った巡礼も居たに違いない。
二句一章とした仕立に、作者曲水の死生観も覗いて見えるように句である、と。

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