羅に日をいとはるゝ御かたち

在日一世の記憶  (集英社新書)

在日一世の記憶 (集英社新書)


Information−四方館 DANCE CAFE –「Reding –赤する-」

―表象の森― 在日、語りの群れ

12月に購入していた「在日一世の記憶」を昨夕やっと読み了えた。有名無名のさまざま52人の在日第一世代の証言を集めた本書は新書版ながら781頁という大部のオーラル・ヒストリー。

序において姜尚中が、
「在日一世たちの証言−その肉声は、<観念の嘴>から滑らかに押し出される声ではない。それは、うめきや叫び、嘆息や怒り、悲しみや喜びに満ちた、全身を痙攣させるように絞り出される肉声である。ここに収められた彼らの証言には、饒舌なおしゃべりとは正反対の、言葉のいのちが宿っている。たとえ、それが彼らの経験が脳に刻み込んだ一般的偏見を免れていないとしても。」と記しているように、一人一人の語り手、その言霊は肉の重さをもってひしひしと伝わってくる。

歴史に向かうあるべき精神を、姜尚中流に「歴史の痕跡を示す証言に問いかける包容力」といってみるならば、本書もまたよくこれを鍛え打ってくれる書であり、この列島の近現代における実相を照射してやまぬ良書の一つとして、渡辺京二の「逝きし世の面影」や宮本常一らの監修になる「日本残酷物語」-5巻本-に、本書を加えておきたいと思う。

―今月の購入本―
・H.マトゥラーナ/F.ヴァレラ「知恵の樹」ちくま学芸文庫
システムが自分自身の組織を形成し変化させていく閉じた環のなかにとどまり、その循環をよき環として捉え直そうというオートポイエーシス論の提唱者たる二人の原理的入門の書。

・A.M.ヴァールブルク「蛇儀礼岩波文庫
恐怖の源か、不死の象徴か。世紀末のアメリカ、ブエブロ・インディアンの仮面舞踏や蛇儀礼は、やがてギリシア・ローマやキリスト教の蛇のイメージと交錯し、文化のなかの合理と非合理、その闘争と共存を暗示する。

堀田善衛「上海にて」集英社文庫
1945年3月東京大空襲の後、上海に渡って敗戦の前後1年余を過ごした堀田善衛が、十年を経て再訪した際にものした回想紀行。

坂部恵「かたり−物語の文法」ちくま学芸文庫
歴史学は客観主義、実証主義の過度の呪縛から逃れ、小説の手法を用いながら、具体的な効果を現す」べしとした折口信夫の論を承け、虚構−実録の双方根底に<かたり>という共通の基盤を見出した著者が、和洋垣根のない柔軟な発想で<かたり>の位相や地平を論じる。

西垣通「こころの情報学」ちくま新書
情報なるもの‥、その意味解釈や処理加工は、生物の身体内に蓄積されてきた情報系に基づいて実行され、結果として情報系自体も変化する。こういった累積効果こそが<情報>の基本的な性格なのだ。

木田元「なにもかも小林秀雄に教わった」文春新書
ハイデガー思想やフッサールやM.ポンティの現象学を専らとしてきた哲学者の読書体験を軸にした自伝的回想録。

三浦雅士漱石−母に愛されなかった子」岩波新書
漱石作品を貫く<心の癖>−それは母の愛を疑うという、ありふれた、しかし人間にとって根源的な苦悩であった。彼の小説の数々を、この<心の癖>との格闘に貫かれたものとして読み解き、人間への鮮烈な問いとして現前させる新しい漱石像。

・入江曜子「紫禁城清朝の歴史を歩く」岩波新書
清朝280年波乱に満ちた王朝の歴史、その出来事の数々を重ねつつ、壮大な紫禁城を隈なく訪ね歩く。

湯浅誠「反貧困−「すべり台社会」からの脱出」岩波新書
いわずと知れた「年越し派遣村」村長である著者の、反−貧困の実践十余年の活動から問う社会と政治へのプロテスト。
他に「DAYS JAPAN」2月号、月刊「みすず」1/2月合併号

―図書館からの借本―
・J.デリダ他「アルトー/デッサンと肖像」みすず書房
「残酷の演劇」狂気の芸術的天才アルトーが遺したデッサンの数々に触発されて書き上げられた300枚におよぶジャック・デリダの文章が添えられたという類例のない画集。

・F.ヴァレラ「身体化された心」工作舎
紹介済み

いしいしんじ「みずうみ」河出書房新社
少年の目線でもって社会との関わりを意識して描いた作品が多く、優しい表現の裏に切実に人間を生きる姿勢が印象的な作家といわれる、いしいしんじ07年初版の小説。

・金子邦彦・池上高志「複雑系の進化的シナリオ」
複雑系科学としての理論生物学の可能性、共生-多様な相互作用世界、ホメオカオス、繰り返しゲームにおける開放的進化、コミュニケーションゲームにおける進化、などを論じる。

・水墨美術大系第11巻「八大山人・揚州八怪」講談社
17世紀後半の明代末から清代初期、花卉や山水、鳥や魚などを題材としつつ、伝統に固執しない大胆な描写で水墨山水の新たな地平を拓いた八大山人の画集。

加藤哲郎「ワイマール期ベルリンの日本人」岩波書店
副題に「洋行知識人の反帝ネットワーク」とある。大正後期から昭和初期にかけて、ワイマール・ドイツに滞在する日本人1000人近くに達した。その学者や芸術家たち、政治的に先鋭化してゆく者、その対立批判派、あるいは中立派などの動向を伝える。

小松和彦/関一敏編「新しい民俗学へ−野の学問のためのレッスン26」せりか書房
これまで民俗学において生み出されてきた数多のキーワードを、現在の文脈のなかで、その堅さをほぐしつつ、再生を図ろうとする事典的コラージュ。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」−21

   文書くほどの力さへなき  

  羅に日をいとはるゝ御かたち  曲水

次男曰く、羅-ウスモノ-は平安末の辞書「名義抄」にも「ウス物」として載せるが、連・俳の詞として取出したのは元禄11年-1689-刊の連歌学書「産衣」が最初か。
「羅-ウスモノ-白く紋なき絹也」として「とる袖も羅匂ふ扇かな−宗祇」を例に挙げている。但し、季の詞とも雑の詞とも云っていないし、第一これは俳諧書の手引書ではない。季語としての初出は「俳諧通俗史」-享保元(1716)年-らしく、仲夏として挙げる。

曲水の句は、諸注いずれも夏としているが、雑と見るべきものだろう。因みに、この巻の以下を見ると表八句目まで雑、九句目-「中なかにと土間に居-すわ-れば蚤もなし−曲水」-が夏である。雑を何句間に持っても季が動いたことにはならぬ。況や、前後同季-夏-の作者が同じ-曲水-などというぶざまなはこびはありえまい。

されば、この「羅」は着衣ではない、被りものである。
二句一章として、男か女か、いずれ身分高き人であろう、俤のひとつも、催促していると覚らせる作りである。うまい会釈-あしらい-付だ、と。

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