千代経べき物を様々子日して

Dancecafe081226101

―四方のたより― ある訃報に‥

俳優金田龍之介の訃報記事に接して、古い知人のY君のことが思い出された。若い頃の遠い面影を脳裏に浮かべながら、彼はこの訃報をどんな感慨をもって受け止めているのだろうか、などととりとめもない想いがあれこれめぐる。

Y君とは関芸の研究所で一緒だったひとりだ。私にとってはたった1年の、それも入所の4月からその年の暮までの僅か8ケ月という、あっというまの研究所時代に親しく交わった何人かのうちのひとりだが、その彼があるときぽつり、二人きりで対座していた私に、自身の出生の秘密を打ち明けたことがあったが、あれはどんな場面であったか、その経緯はまるで霧の中だ‥。

金田龍之介−東京の本所松坂町で生まれた彼が、なぜ幼くして大阪へと移ってきたか、5歳にして天満八千代座で初舞台という経歴が示すのはなにか、一向見当もつかないが、旧制の都島工業卒とある最終学歴とが奇妙な不釣合を感じさせる。戦前にあった天満八千代座は歌舞伎の常打小屋だったというから、歌舞伎役者の家系に連なる出生だったのか、それとも親が歌舞伎愛好の旦那衆でもあったか‥、おそらく後者でなかったか。

彼の芸歴によれば、’49-S24-年から辻正雄さんがはじめた「青猫座」に所属し、’55-S30-年には道井直次さんのいた「五月座」や「矢車座」に所属したようである。そして翌年-’56-には上京、新派に入団し伊志井寛に師事と、以後舞台に映画にと活躍するようになるから、大阪では幼少期から始まって青春期の大半を過ごしたことになるか。

自戒にあらず自嘲を込めてのことだが、所詮、役者稼業になど自らすすんで歩みゆくなど放蕩人生のなにものでもないが、彼もまた放蕩の人であったのだろう。その大阪時代、青春の果敢な彷徨の影にY君の出生が絡んでいることになろうが、それにしても彼はたしか私より2.3歳下の筈だからすでに61か2歳、ならば当時金田龍之介はいまだ「青猫座」に所属してもおらず、いかなる彷徨の淵にさすらっていたか‥。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−05

   ならべて嬉し十のさかづき  

  千代経べき物を様々子日して  芭蕉

子日-ねのひ-は初子、根延びに掛けて縁起物の小松を引くなどして、千代を祝う正月行事

次男曰く、雑一句をはさんで秋を春に移したはこびだが、そのうつし様がうまい。野水の作りが口切の準備の趣向だと去来が読取ったかどうかは判らぬが、春への移りを芭蕉が、打越-野水句-以下三句の祝気分のもつれにもかかわらず、敢えて新春行事と作ったのは、訳がある。君-野水-に初冬の正月があるなら、私には春正月がある、月の座を君に譲ったお蔭で思いがけぬ正月気分を味わせてもらう、と読んでもよい。

じつは二度正月の興は、はこびの趣向は違うが「冬の日」の歌仙にも見られる。
  はやり来て撫子かざる正月に  杜国
   つゞみ手向る弁慶の宮    野水
  寅の日の旦-あした-を鍛冶の急-とく-起て  芭蕉

「炭売の巻」名残ノ裏九句以下のはこびである。天災地変や悪疫の流行に見舞われると、正月を二度重ねて厄払をする風習は古くから各地にのこる。流行り正月と云い、季語ではないがことの性質上、夏-陰暦6月朔日-などに行った例が多い。句はその「はやり」と「正月」を上下に裁ち分けて、季を撫子-常夏-に持たせている。むろん、夏正月にナデシコを飾るなどという風習はどこにもあるまい。調子に乗った杜国の出任せだが、付けて野水はそれなら私もひとつ、と作り話で合せている。全くのでたらめにしろ、民俗としてはいかにも有りそうだいう人情仕立が、笑いのみそで、続く芭蕉の「鍛冶」の早起は、両人合作の心根を汲んで、三度目の正直噺を以て虚を実に奪う工夫としている。タネは「三人言へば虎を成す」-戦国策-、及び赤壁の戦に破れた曹操の故事-三国志演義-だ。このはこびは軽捷にしてかつ重厚、「炭売の巻」の座興の一クライマックスを成す。

芭蕉は、はからずも野水の茶人正月の句を得て、6年前の吟会を思い出した、と懐かしく告げているのだろう。そう読める。
「様々」は「ならべて」のうつりだが、執成して次座の好奇心を促すところにうまみがある、と。

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