鶯の音にたびら雪降る

9784874300404

―表象の森― 内村剛介のロシア

内村剛介-本年1月30日死去、享年88歳-については、名のみぞ知るばかりでその著に触れることもなくきてしまったが、このほど陶山幾朗編「内村剛介ロングインタビュー:生き急ぐ、かんじせく−私の二十世紀」を読むほどに、11年に及ぶシベリア抑留をはじめとするその波乱に満ちた生と、骨太にして剛胆ともいうべき生来の気質から成ったであろうかと思われる彼のロシア観には、少なからぬ衝撃とともに感銘を禁じ得なかった。
一言でいうなら、これぞ「戦中派」なのだ、と思い至る。
読み終えてまもない今、それ以上になにほどのことも語り得ぬ身ゆえ、吉本隆明による本書まえがきをそのまま引いておく。

深い共感が導き出した稀有な記録 −吉本隆明

 この本は陶山幾朗がインタービュアとしてロシア文学内村剛介に真正面から問いを発して、それにふさわしい真剣な答えを引き出すことに成功している稀有な書だ。周到な準備と確かなロシア学の知識・内村剛介への深い共感とが、おのずから彼の少年期からの自伝とロシア学者としての知識と見識の深い蓄積を導き出していて、わたしなどのような戦中に青少年期を過した者には完璧なものと思えた。わたしのような戦中派の青少年にとって日本国のロシア文学者といえば二葉亭四迷から内村剛介までで象徴するのが常であった。そして実際のロシアに対する知識としてあるのはトルストイドストエフスキイツルゲーネフ、チェホフのような超一流の文学者たちの作品のつまみ喰いと、太平洋戦争の敗北と同時にロシアと満洲国の国境線を突破してきた、ロシア軍の処行のうわさだった。中間にノモンハン事件と呼ばれるロシア軍と日本軍の衝突があったが、敗戦時のロシア軍の処行については、戦後になって木山捷平の作品『大陸の細道』が信ずるに足りるすぐれた実録を芸術化したものと思えた。あとは当時の新聞記事のほか何も伝えられなかったに等しい。

 太平洋戦争の敗戦とともにロシアの強制収容所について文学者が体験を語っているものは、内村剛介が時として記す文章から推量するほかなかった。わたしはおなじ詩のグループに属していた詩人石原吉郎の重苦しい詩篇をよんでそんなに苦しいのならロシアの強制収容所の実体をはっきり書いてうっぷんをはらせばいいではないかと批判して、その後詩の集りに同席したことがあるが、お互いに一言も口をきかずに会を終えたことがあった。彼にはわたしの批判が浅薄に思えたのだろう。わたしは彼の晩年の二つの詩「北条」「足利」をよんだとき、はじめて石原の胸の内が少しく理解できるかもしれないと感じた。

 陶山幾朗という無類の、いわば呼吸の出しいれまで合わせてくれるようなインタービュアを得て、この本は出来上っている。少し誇張ととられるかも知れないが、わたしには親鸞と晩年の優れた弟子唯円の共著といっていい記録『歎異抄』を思い浮べた。わたしなどには内村剛介が十一年のロシア強制収容所生活中だけでなく、帰国のあと現在にいたるまでロシア学についての専門的な研鑽を怠っていないことがわかって、たくさんの啓蒙をうけた。どうか健康であってもらいたいものだ。

 わたしがこの本につけ加えることは何もないに等しいが、この本がふれていないことと言えば、後藤新平満鉄総裁のもとで副総裁であった中村是公夏目漱石の大学時代の心を許した悪童仲間で、是公から新聞を発行して助けてくれないかといって訪れている。漱石は胃病が思わしくないと断っている。それならただ見て歩くだけでいいから遊びにこいといわれて『満韓ところどころ』の気ままな旅を是公のおぜん立てでたのしんだ。公的な集りには一切かかわらなかったが、南満各地に散らばった悪童仲間に会い、二葉亭の故地も訪れていることがわかる。漱石のこの旅は『趣味の遺伝』に尾をひき、強いて言えば小説『こころ』につながっている。」


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−06

  千代経べき物を様々子日して  

   鶯の音にたびら雪降る  凡兆

次男曰く、初子は初音に通い、鶯と子日は和歌以来のありふれた付合である。「物を様々子日して」をさぐれと唆されて、面影の一つも考えぬ筈はないが、さいわい「源氏物語-初音の巻-」には相応しい一趣向がある。

「今日は子の日なりけり。げに千歳の春をかけて祝はむに、ことわりなる日なり。ひめ君-明石上の娘、紫上の養女-の御方に-源氏が-わたり給へれば、わらは・下仕へなど、お前の山-庭の築山-の小松ひき遊ぶ。わかき人々の心地ども、おきどころなく見ゆ。北のおとど-明石上-より、わざとがましくし集めたる鬚籠-ひげこ-ども、破子-わりこ-など、たてまつれ給へり。えならぬ五葉の枝にいれる鶯も、思ふ心あらむかし。」とあり、続けて
「とし月をまつにひかれてふる人に今日うぐひすの初音きかせよ」-明石上-
「ひき別れ年はふれどもうぐひすの巣立ちしまつのねを忘れめや」-姫君-、の贈答がある。文にいうところの五葉の松も、枝に移る鶯も本物ではないとわかる。作り物である。

前句の「様々」をさくって、凡兆が取出した下敷はどうやらこれらしい。作り物を野に放ちやり本物のウグイスの音と化して聞く、と考えれば昔物語を俤にした付は、なかなかよく出来た俳諧になるだろう。掛けられた謎を見逃して、芭蕉句の作りを野外の遊宴などと読んでかかると-古注以下大方はそう読んでいる-、凡兆の句は二句一意、まったくつまらぬ伸句-のびく-になってしまう。

「たびら雪」は原板では「たひら雪」、平らなさまに降る雪か、それとも薪ごしらえなどに使う山裾の小平に降る雪か、いずれにしろ「平ら雪」だろう。ならば、無理に濁って訓まなくてもよい。通説では「たびら雪」は「だんびら雪」もしくは「かたびら雪」と同義とするが、「平ら」と段平や帷子とでは、つまるところ淡雪・牡丹雪のこととしても転訛の成り立ちがまったく違う。況や、山平らに降ると考えれば、雪の形状は句作りの従-含-にすぎない。言葉の多義性を気にかけた評家はいないが、私説、山平らに降るぼたん雪と解しておく。

因みに、山城・近江あたりでは、新年の初山入を子日行事にする風習が今に伝わっている。合せれば、王朝絵巻の一齣を奪って近世農民の暮しとした気転は、いっそう利くだろう。「たびら雪」はやはり段平雪や帷子雪の約ではあるまい、と。

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