ものおもひけふは忘れて休む日に

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―四方のたより― 心の際-こころのきわ-

六甲の植物園に紫陽花を見に行ったのはもう何年前だったか、秋にK女が生まれたその年の初夏だったとすれば’01年か。

11日の土曜、ひさしぶりにその六甲山へ、このたびはK女と二人でドライブ行。このところ仕事に追われる連れ合いは一向に休日も取れないから、子守代わりにフィールドアスレチックででも遊ばせてやるかと出かけてみたのだが、この年になると身体にきついこと夥しい。帰りの運転など、気怠さからか襲いくる睡魔に抗いようもなく、とうとう43号線の西宮辺りで30分程停車して仮眠をとる始末で、哀しいかなおのが体力の衰えを実感させられる。

さて、昨日はいつもの稽古だが、この日は、負の意味において、記憶に留めねばならぬ日となった。

昨年の10月末よりすでに5ヶ月余を経て、とうとうこの日を迎えてしまったについては思うこといろいろあれど、いまはなんとも言葉に尽くしがたい。
偶さかこの三日ほど、竹内整一の「日本人はなぜ『さようなら』と別れるのか」-ちくま新書-を、他書と併せ読んだりしており、今朝ほど読了したのだが、
この「さよなら」が、「さようであるならば」か、はたまた「そうならなければならないならば」のいずれに偏るものか、その判別も下しかねるが、ただおのれ一身の「心の際」-器量-のこととして受けとめずばなるまい。

いまはただ、本書の中で採られていた、浄土真宗の僧であった金子大栄-1881〜1976-が「色即是空、空即是色」を意訳したもの、とされる詞を書き留めておく。
「花びらは散る
 花は散らない」


連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−11

   蛭の口処をかきて気味よき  

  ものおもひけふは忘れて休む日に  野水

次男曰く、「蛭の口処」を雑の詞に執成した、時宜の付だが、「ものおもひ」を恋の呼出しと察知させる「−に」留めがうまい。

「休む日に」は逆-前句-にも順-次句-にもはたらく。前句と合せれば「ものおもひ」は農民のその日暮しの思案で、恋の詞というわけではない。だからこそ恋に奪いたくなるたのしみもあるのだが、仮にこれを「休みけり」と留めれば、「ものおもひ」はとたんに、無表情、無内容なことばと化してしまう。打越以下三句の見渡しも、同一人物の徒な付伸しにとどまって、連句にならぬ。

はこびは軍記に寄せた興のあとを承けて、恋句のひとつもほしいところだ。蛭に二用があれば物思いにも二用がある、と閃いた思付が「に」留めを生んだゆえんで、寄継ぎの手本のような句である、と。

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