金鍔と人によばるゝ身のやすさ

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―四方のたより― ちょっぴり成長

青空ひろがる陽光のもと自転車を走らせればすぐにも汗ばんでくるほどで、夏日に達しようかというバカ陽気だ。
今日はKAORUKO手習いのピアノの発表会だが、会場の阿倍野区民センターへは自転車で行くのが通例のようになって、ちょいとしたサイクリングというわけである。

習い始めて3年目で、発表会への出演も3度目、晴れの舞台に緊張で強張ってしまいがちだった子も、ようやく少しは馴れてきたと見えて、子どもたちみんなと一緒に舞台に並んで撮る記念写真にも今回初めて無事おさまった。石の上にも三年、まさに三度目の正直といったところか。

演奏の出来はといえば、外の子どもたちと比較できるほど聴いてはいないからよくは分からぬが、遅々として牛歩の如くとはいえ、マイペースでそれなりに上達しているとはいえそうだ。もともと勧めてみた母親のほうだって、別段ゆくゆくはなんて押しつけがましい期待をかけているわけではないのだから、このさき何年続こうと続くまいとさして拘らぬし、子ども時代の彩りのひとつにでもなればと、まあそんなところでいいのだろう。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−13

   迎せはしき殿よりのふみ  

  金鍔と人によばるゝ身のやすさ  芭蕉

次男曰く、「殿よりのふみ」を受取る人を女から男に見替え、恋離れとしたはこびだが、おなじ休息でも束の間のそれ-打越と前−女-と「金鍔-きんつば-」のそれとは違うというのが、もう一つの大切な狙いだろう。

男女の気苦労の違いに眼をつけて句長を磨き上げるとは、うまい奪い方をする。当然、「人によばるゝ身のやすさ」とは、噂の仕立で我身の感想ではない。自・他のはこびから見ても、裏三句目凡兆の「風薫る」以下、自・自・時宜と続けて再び自の句を継ぐことなどありえない。「迎せはしき殿よりのふみ」は他の句である。付けて芭蕉の句も、金鍔を其の人の会釈とした他の作りだ。とかく評釈家が自他の見定めを避けたがるはこびだが、理に適った話作りをすればそう読むしかない。

その点に気付くと、噂の人物の俤のひとつも探りたくなる。思いがけぬこの兆しは連句の面白さである。さしづめ、相応しいのは幕藩体制の中に用人政治の優位を認識させた、かの柳沢吉保だろう。吉保は館林藩徳川綱吉の稚児小姓として出仕、綱吉が5代将軍となるや、小納戸役に進み、次第に重んじられて、元禄元年側用人に任じ併せて諸侯に列せられた。31歳の時である。これより先、貞享元年には、大老堀田正俊若年寄稲葉正休-綱吉のもと側衆-によって、江戸城本丸の御用部屋で刺殺されるという事件が起きている。幕閣の職制はすでに崩れつつあった。吉保が名実共にその権勢を恣にするのは元禄10年頃からだが、羽振りのよさは既に世間の評判になっていた筈だ。

金鍔はもと、刀身具に華美を競った桃山・江戸初期の一流行だが、寛永末頃から金の産出量が激減するにつれてその実用性を失った。元禄前後には、遊里通いなどの差料の見栄として僅かに名残をとどめ、語意も伊達者や権臣などを指す痛言へと転化したようだ。曰くありげに遣われたことばである。西鶴の「好色五人女」-貞享3年刊-には、「其年のほど十五か六か七まではゆかじ。水色の袷帷子に紫の中幅帯、金鍔の一つ脇差、髪は茶筅に取乱、そのゆたけさ女のごとし」と、当世若衆姿を描いている、と。

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