あつ風呂ずきの宵々の月

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―表象の森― 島之内小劇場生みの親、西原牧師の訃報

昨日の朝刊に西原明牧師-享年80歳-の訃報記事があった。彼が大阪の島之内教会から東京へと転出し、在阪時代と同様に自身牧師として奉職したシロアム教会で、自殺防止センターいわゆる「いのちの電話」の活動をひろげていった経緯などについては、昨年暮れの毎日新聞連載の特集記事「がんを生きる〜寄り添いびと」で懐かしくも詳しく知るところとなったが、私の知る西原牧師は、その島之内教会時代、大阪で「いのちの電話」をはじめ、ずっとその中心にあって活動していた彼であり、とくに’70年代〜’80年代、関西小劇場演劇の拠点として先駆的役割を担ってきた島之内小劇場のオーナー的存在としての彼だ。

島之内小劇場の誕生は’68年6月だそうだ。西原本人の回想談によれば、61年に教会活動の研修渡米した折、ニューヨークのワシントンスクエアにあるジャドソン記念教会で、当時としてはよく知られた詩人劇場、芝居やモダンダンス、ジャズ音楽などを上演していたのに出会ったのが動機になっている、という。のち’67年に島之内教会に赴任してきた彼にとって幸いしたのが、当時この教会一階部分を稽古場として借用していた劇団プロメテ-代表・岡村嘉隆-との出会いだった。教会の礼拝堂をそのまま利用した劇場空間というのも異色で、以後在阪の劇団のみならず東京などからのノリ打ち公演もよく掛かっていたものだ。また、この劇場を利用した島之内寄席もほぼ同時期に始まっているが、この発案も彼に拠るものであったらしい。

私はといえば、’72年7月に「身ぶり学入門-コトバのあとさき-」を、この教会の礼拝空間をそのままに利用して上演しているのが、自身の転回点となった舞台として、なんといっても印象深く記憶に残る。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−14

  金鍔と人によばるゝ身のやすさ  

   あつ風呂ずきの宵々の月  凡兆

次男曰く、初裏八句目、月の定座。句末に投込の躰に作っている。
其人の会釈-金鍔-を以て付け、更に又会釈-熱風呂好-を重ねて付ける、というような鈍なはこびはない。二句の人物は別人、というより観相の対付である。ならば片や金鍔の身分になるまで、片や熱風呂好になるまでには、それなりの努力、人知れぬ苦労があるということだろう。そう読めば取合せの妙になる。

三浦浄心の「慶長見聞集」に面白い話がある。「見しは昔。江戸繁昌のはじめ、天正十九年卯年夏の頃とかよ。伊勢與市と云し者、銭瓶橋の辺りに銭湯風呂を一つ立る。風炉銭は永楽一銭なり。皆人珍しきものかなとて入給ひぬ。されども其頃は風呂不鍛錬の人あまた有りて、あら熱の湯の雫や、息がつまりて物も云われず、煙にて目もあかれぬ、などと云ひて小風呂の口に立ふさがり、ぬる風呂を好みしが、今は町毎に風呂有、びた拾五文、廿銭づつにて入也。湯女と云ひてなまめける女ども廿人、三拾人ならび居て、あかを掻き、髪をそそぐ。扨又、其外に容色類なく、心様優にやさしき女房共、湯よ茶よと云ひて持来り戯れ、浮世語りをなす。頭をめぐらし一度笑めば、百の媚をなして男の心を迷はす。云々‥」-ゆなぶろ繁昌の事-。

云うところは、上がり湯用の小風呂を別に設けた蒸風呂のことと知られるが、石榴口と呼ぶ低いくぐりから這入る仕掛になった共同浴室だ。密室の湯気に馴れるまでには、それだけでもけっこう忍耐と工夫が要る。況や、毎夜の熱蒸好となれば、並の鍛錬ではない。浄心の記事は、色模様も絡ませてそっくりそのまま、凡兆句のたねになる。尤も凡兆がこれを読んでいたという証拠はない。慶長も元禄もこの種の風俗は同じだった、と考えるべきかもしれぬ、と。

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