十何年過ぎ去つた風の音

Dancecafe08092860

山頭火の一句−「地橙孫即興」と詞書あり

山頭火昭和4年2月、北九州を行乞しているが、この折下関の地橙孫を訪ね「半日清談」をしたとあり、この時の句であろう。

地橙孫-兼崎理蔵-は河東碧梧桐に師事。熊本五校から京大独法に進んだ彼は弁護士でもあった。この日は山頭火にとって大正5年に別れて以来の再会であった。


―世間虚仮― 靖国競馬

昨日の毎日新聞夕刊、我が国で初めて西洋式の競馬が催されたのが、例年のように政治家たちの参拝で物議をかもすあの靖国神社の境内であった、というのには驚かされた。

靖国神社の桜並木はよく知られ例年花見客で賑わうらしいが、この桜が靖国の競馬と由縁が深いのだという。
時は明治3-1870-年、靖国神社の前身である東京招魂社が戊辰戦争の朝廷側戦死者を慰霊するため創建されたのはその前年の明治2年だが、ちょうどその一年後の9月23日、時の兵部省主催により例大祭の奉納競馬が催された。これが日本人自らの手で初めて行われた洋式競馬で、競馬場となったのは第一鳥居と第二鳥居の境内で一周900メートルの細長いコースだが、これを機に木戸孝允ソメイヨシノを数十本植えたのが今の桜並木につながっている、と。

記事には空撮による参道からの靖国神社の全景が添えられており、往時の情景を髣髴させてくれるが、日清戦争終結3年後の明治31年まで執り行われたというこの靖国競馬、ずいぶんと江戸っ子の人気を博したらしい。
いわば当時の鹿鳴館同様の欧化政策、その象徴的存在としての舞台装置となった靖国神社だが、後に現在のごとく英霊を祀る宗教施設として国家的な存在にまで成りゆくその前史に、「靖国競馬」なるこんな一齣があったというのは記憶に留めておいてよいだろう。

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