鴉啼いてわたしも一人

Ekin090504

山頭火の一句−大正15年の句、「放哉居士の作に和して」と詞書

山林独住の味取観音堂での堂守暮しは、気ままな托鉢とともに、時に久しく遠ざかっていた近在の俳友たちを訪ね歩くといったもので、その友人たちから俳誌「層雲」を借りて読むようになっていた山頭火は、自ずと忘れかけていた句作も復活させている。

尾崎放哉の「入庵雑記」が載った大正15年の「層雲」新年号は、木村緑平から借りて読んだらしい。島に来るまで・海・念仏・鉦たたき・石・風・灯と7章からなる放哉の随筆は、この年の5月号まで5回に分けて連載されている。
山頭火はこれらを読み継いでは感涙に暮れたか、と思われる。

放哉の、須磨での吟といわれる「こんなによい月を一人で見て寝る」を思いつつ生まれたのが、この放哉思慕の句である。


―世間虚仮― 1000円高速みやげ

4日の朝、少しく絵金世界に触れたあと、こんどは子どもサービスにと絵金蔵からほど近い龍河洞へと移動する。
薄暗い鍾乳洞の中は観光客で前も後ろも鈴なりの状態、ただひたすら狭い昇り降りを繰りかえすばかりだが、幼い彼女にとってはちょっぴり怖い冒険ごっこよろしく印象づけられたとものと思われる。

そこで昼食をとってから今宵の宿泊先へと向かうのだが、なにしろ高知県の東部から西南端の足摺岬まで、およそ180?の道のりだから大変、道すがらのんびりとちょいと寄り道なんてことはとてもできない。出立の2.3日前にようやく押さえられたのが足摺岬を回り込んだ辺りの民宿で、その折はそんなに距離があろうとは思わず、詳しく調べなかったのがしくじりのまきだが今更どうにもしかたがない。

南国から須崎東まで高知道、56号線はときおり信号付近で渋滞に出くわしながら、四万十の下流に架かる橋を通り過ぎて321号線へ、半島の背骨のような山間を抜けようとするあたり、足摺テルメなる温泉に着いたのがちょうど5時頃、ここまでくればあと少しのこととてゆったり湯に浸かっていこうと、疲れを癒すこと小一時間、宿への到着は6時15分過ぎだった。

四国の民宿は、たいがいふだんは遍路客をあてこんでいるからだろう、どこでも宿泊は格安の相場ときている。そのぶん他者と差別化する工夫の必要に迫られることがないか、食事もサービスもごく月次であっけらかんとしたものだ。ただ困ったのは、室内すべて禁煙、喫うならベランダでと言われたこと、仕方なく夜長5.6回ちょいと涼しすぎるベランダに出ては一服した。

明朝は、以前にも歩いたことはあるが、このたびは子ども連れとて、ひとまず足摺岬を散策。38番札所の金剛福寺はまだあまり時を経ていないとみえる豪壮な石組みの庭が眼を惹く。立派な大師堂もまだ新しいものだろう。前の37番岩本寺からおよそ100?と最長のコースというから、遍路は健脚でも二日がかり、到底此方は縁なき衆生だ。

さてそれからの帰路が長かった。ようやく須崎東ICに入ったのが午後2時前か、JUNKOが一時間余り運転を代わってくれたから一息ついたものの、往路と変えて明石・鳴門コースを取ったのが運の尽きだったか、1000円高速の大渋滞、受難のはじまりだった。不覚にも高松道はほぼ一車線というのを知らず、この高速の各処ですでに渋滞つづき、業を煮やして白鳥大内ICで高速を捨て11号線へ、長い鳴門の海岸沿いは快適に走ったが、鳴門大橋へ上がるともうえんえんと渋滞ははじまっていた。

長い運転からやっと解放されたのは午後11時、このところお気に入りの拉麺屋に立ち寄って遅い食事、無事ご帰還したものの、いまにもひょいとはずみで腰痛が起こりそうでどうもいけない。
危ない危ない、しばらくは気をつけるべし。

・写真は絵金の芝居絵「蝶花形名歌島台−小阪部館」

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