旅の馳走に有明しをく

Dancecafe081226047

―表象の森―「群島−世界論」-01-

にごり、澱みながら、緩やかにたゆたい流れる水の氾濫のイメージが天地をことごとく覆い尽くしている。
光も、闇も、事物の輪郭も、人の影ですらも、そこでは水の乱反射する輝きと機敏な運動性によって、すみずみまで統率されているように感じられる。水面に微かな波紋を立てながらゆっくりと動く視線のやわらかな水平運動は、この水の邦の唯一の乗り物である小舟-ピログ-がもたらす軽快なリズムによるものだ。水の偏在としての「世界」。あまねく大地に染み渡って拡がる水の普遍的存在こそが、ミシシッピ・デルタの豊饒を約束するすべての源であることが直感的に了解される。この、あまねき水の白昼夢のようなたゆたいを、少年の操る小舟の緩やかな滑走の視点から長々と描写し続ける印象的な冒頭を持った映像作品が、ロバート・フラハティ監督の「ルイジアナ物語」-1948-である。
  -今福龍太「群島−世界論」/1.デルタの死者たち/より-


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−22

  冬空のあれに成たる北颪  

   旅の馳走に有明しをく  芭蕉

次男曰く、諸注、芭蕉の「花とちる」の句に釣られて、「木曽の酢茎に春もくれつゝ」以下をだらだらと不用意に旅体の続と読んでいるが、そうではない。旅を思うことと旅の実際とは違う。当歌仙に旅体の句が初めて現れるのは、芭蕉のこの付においてだ。諸注のようにはこびを読めば「旅の」はまったくの駄目押しの死語になる。

名残ノ折も四句目、そろそろ話の一つも仕掛けてみようか、という作りである。「有明-ありあか-し」は、「ありあかす」の名詞形で常夜灯のこと、大黒柱とか水揚などに掛吊すのを常とした。「馳走に」にとあるから、普段は灯さぬ倹約の暮しと分かる、と。

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