上張を通さぬほどの雨降て

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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―世間虚仮― 近くて遠い、遠くて近い‥

市岡15期会-高校の同期会-の久方ぶりの会合に出かけた。
席上、旧友の思いがけない死を伝え聞いた。Yはいわば幼なじみのようなものである。なにしろ幼稚園で一緒だったし、小学校で離れたものの、中学校でまた一緒になって、高校も同じだったのだから。そんなことで仲も良かったし、YとNとぼくら双子の兄弟は、幼・中・高を共にした4人組だった。高3の夏休みなどは、この4人組で二上山麓の宿坊のようなところに受験合宿まで敢行した仲だったのだ。

お互い生きざまというか、進路などの選択肢が異なっていったから、高校を出てからは遠い存在になって、そのまま数十年生きてきたとしても、昔懐かしい幼い頃をよく知る者が逝ったという事実に触れるということは、少なからず心は動揺し衝撃が走るものだ。

近くて遠いような、はたまた遠くて近いような、死。こういう死に触れると、皮膚感覚や嗅覚にも似たような、そんな感覚レベルで反応している自分がある。
50年ほども昔の二上山を、ふと尋ねてみたくなった‥。



<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

空豆の巻」−03

   昼の水鶏のはしる溝川  

  上張を通さぬほどの雨降て  岱水

次男曰く、「上張を通さぬほどの雨」とは小糠雨か日照雨-そばえ-か、雑の作りだが前-発句・脇-の季節の余情はあり、「水鶏のはしる」-ハシリ-の見合は入梅前のひとときだろう、と付けている。目にとまらぬものの映りも利かせている。

「川」の寄合を「雨」と思付くのは容易だが、どういう人情含みの句に転じるかが、ここ第三の見どころになる。「上張を通さぬほどの」は、右に左に目配りの利いた上手の芸である、と。

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