かなかなないてひとりである

0509rehea0013

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句―

句は昭和5年の行乞記、9月17日の項に
行乞記: 9月18日、雨、飯野村、中島屋

濡れてここまで来た、午後はドシャ降りで休む、それでも加久藤を行乞したので、今日の入費だけはいただいた。-略-
朝湯はうれしかつた、早く起きて熱い中へ飛び込む、ざあつと溢れる、こんこんと流れてくる、生きてゐることの楽しさ、旅のありがたさを感じる、私のよろこびは湯といつしよにこぼれるのである。--略-

同宿の人が語る「酒は肥える、焼酎は痩せる」、彼も亦アル中患者だ、アルコールで自分をカモフラージしなくては生きてむゆけない不幸な人間だ。-略-
同宿の人は又語る「どうせみんな一癖ある人間だから世間師になつてゐるのだ」、私は思ふ「世間師は落伍者だ、強気の弱者だ」。
流浪人にとつては食べることが唯だ一つの楽しみとなるらしい、彼等がいかに勇敢に専念に食べてゐるか、その様子を見てゐると、人間は生きるために食ふのぢやなくて食ふために生きてゐるのだとしか思へない、実際は人間といふものは生きることと食ふこととは同一のことになつてしまうまでのことであらうが。
とにかく私は生きることに労れて来た。


―表象の森―「群島−世界論」-10-

群島への旅はDialect-方言-への旅である。近代の国民国家=大陸が認定した公式の「National Language=国家語」の幻影の岸をひとたび離れて海をわたり群島に赴けば、生きられている真の「言語」の内部に孕まれた無数の不連続と縞模様のような変異が、一気にあらわになって私たちの前に迫ってくる。その縞模様の最深部に、日常の土地ことばとしてのDialectが静かに聴こえてくる。群島において、私たちはもっとも口誦的にできあがった言葉の芯に柔らかく触れながら、一方でその周囲を包囲するいくつもの言語的外皮のささくれだった権力のありようにも目覚め、人間の「舌」に侵入しそれを統率してきた言葉の歴史を深く自覚することになる。国家語という理念的でメディア的な構築物からDialectへの距離は、思ったよりはるかに遠く、そのあいだにはいくつもの言語的断絶が走っていた。

カリブ海の口誦的世界、語り部のDialectによる物語行為によって媒介されるような音響の小宇宙、それは死者を追悼する「通夜」-Funeral wake-の場であった。
たとえば、グッドループ島出身のマリーズ・コンデの小説「マングローブ渡り」-1989-に描かれたように、通夜-wake-とは、文字どおり死を媒介にしたあらたな意識の覚醒-wake-を意味していた。

また、アイルランドスコットランドケルト系世界で古くから行われてきた通夜-wake-での泣唱-keen-の存在、その役割は、人々の悲嘆の感情を代替したというよりは、むしろwakeという中間的な時空間を現出させるための非日常的noiseとしての、音響的な象徴機能を果たしていたというべきだろう。
 -今福龍太「群島−世界論」/10.薄明の王国/より

人気ブログランキングへ −読まれたあとは、1click−