波の音たえずしてふる郷遠し

Santouka081130021

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、9月30日の稿に

9月30日、秋晴申分なし、折生迫、角屋
いよいよ出立した、市街を後にして田園に踏み入つて、何となくホツとした気持になる、山が水が、そして友が私を慰めいたはり救ひ助けてくれる。-略-

今日、求めた草鞋は-此辺にはあまり草鞋を売つていない-よかつた、草鞋がしつかりと足についた気分は、私のやうな旅人のみが知る嬉しさである、芭蕉は旅の願ひとしてよい宿とよい草鞋とをあげた、それは今も昔も変らない、心も軽く身も軽く歩いて、心おきのない、情のあたたかい宿におちついた旅人はほんとうに幸福である。-略-

夜おそくなつて、国政調査員がやつてきて、いろいろ訪ねた、先回の国勢調査は味取でうけた、次回の時には何処で受けるか、或は墓の下か、いや墓なぞは建ててくれる人もあるまいし、建てて貰ひたい望みもないから、野末の土くれとの一片となつてしまつてゐるだだらうか、いやいやまだまだ業が尽きないらしいから、どこかでやつぱり思ひ悩んでゐるだらう。-略-

青島即事と前書して「白浪おしよせてくる虫の声」他5句記している。

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.12-

林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.2

―表象の森― 「群島−世界論」-18-

こころみに「幸福」という言葉を英訳してみよう。おそらく誰もがごく自然にとするだろう。それは私たちのときに荒れ果ててもいる日常の、ささやかな憧れの表明でもある。だがもしと答える者がいれば、その人はずっと詩人に近いところにいる。happinessの幸は悲しくも軽く通俗的だが、blissの幸はたとえ一瞬であろうとも天上的で陶酔的な得難い至福の謂いである。happinessが求められるものであるとすれば、blissは思いがけぬ不意の到来である。他にもgood, welfare, well-beingといったそれぞれに文脈やニュアンスを異にする訳語が容易に浮かんでくる。「幸福」という言葉のこうした多様な変異が示すように、幸福は単一の感情へと収斂しえない、それ自体群島のような情動の揺れを抱く感情複合体である。幸福という真実に行き着く経路もまた、近代の歴史や宗教・信仰の道筋、さらには日常生活の刹那に訪れる得心のか細い稜線といった無数のルートを含みこんでいる。群島の想像力は、こうした感情語彙を多様な可能性に拓いてゆくときにも、私たちの内部でたしかにはたらいている。

詩は大陸から孤絶した島である。わが群島のさまざまな方言-Dialect-は、私にとって彫像の額の上の雨滴のように新鮮に思われる。それは威圧的な大理石の古典的な奮発による汗ではなく、雨と塩という清冽な要素の凝縮そのものである。−D.ウォルコット「The Antilles: Fragments of Epic Memory」
 -今福龍太「群島−世界論」/18.ハヌマーンの地図/より

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