ざくりざくり稲刈るのみの

Dancecafe081226012

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月15日の稿に
10月15日、晴、行程4里、有水、山村屋

早く発つつもりだつたけれど、宿の支度が出来ない、8時すぎてから草鞋を穿く、やつと昨日の朝になつて見つけた草鞋である、まことに尊い草鞋である。
2時で高城、2時間ほど行乞、また2里で有水、もう2里歩むつもりだつたが、何だか腹具合がよくないので、豆腐で一杯ひつかけて山村の閑寂をしんみりエンヂヨイする。-略-

途上、行乞しつつ、農村の疲弊を感ぜざるを得なかつた、日本にとつて農村の疲弊ほど恐ろしいものはないと思ふ、豊年で困る、蚕を飼つて損をする…いつたい、そんな事があつていいものか、あるべきなのか。-略-
友のたれかれに与へたハガキの中に
「やうやく海の威嚇と藷焼酎の誘惑とから逃れて、山の中へ来ることが出来ました、秋は海より山に、いち早く深まりつつあることほ感じます、虫の声もいつとなく細くなって、あるかなきかの風にも蝶々がただようてゐます。…」
物のあはれか、旅のあはれか、人のあはれか、私のあはれか、あはれ、あはれ、あはれといふもおろかなりけり。-略-

薩摩日向の家屋は板壁であるのを不思議に思つてゐたが宿の主人の話で、その謎が解けた、旧藩時代、真宗は御法度であるのに、庶民が壁に塗り込んでまで阿弥陀如来を礼拝するので、土壁を禁止したからだと。
※表題句は14日の稿に記載の一句

―表象の森― 紅テントとTAKARAZUKA

先の日曜に中之島国立国際美術館で観てきたやなぎみわの世界、その作品系譜は彼女のオフィシャルサイトでもほぼ鑑賞できるもので、訪問者にとってはうれしいサイト、未見の方は一度覗いてみられることをお奨めする。
やなぎみわについては斎藤環の「アーティストは境界線上で踊る」で初めてその存在を知った。本書は斎藤自身によるさまざまな現代美術作家へのインタビュー記録と精神分析家ならではの作家論からなるものだが、このインタビューでやなぎ自身、作品発想の動機に色濃く影を落としているであろうものに、唐十郎の紅テント体験を語っている。

それは彼女がまだ学生の頃であったのだろう、観に出かけたものの場所がわからず迷いに迷ったあげく、やっと夜の暗がりの中にポツンと立つテントを探しあてた時、芝居はすでに終盤で、防空頭巾を被った年齢不詳の少女歌劇団がシャンシャンと狂乱していた、と。さらに、その芝居は「少女地獄」だっと思う、とも語っているのだが、唐十郎の作品でずばり少女とつくのは「少女仮面」や「少女都市」-いずれも1969年初演-、あるいは「少女都市からの呼び声」-1985年-くらいだから、「少女地獄」という語は、彼女の想念のなかでいつしか醸成されてきたのだろう。

いずれにせよ、この折、垣間見るほどにしか見られなかった紅テントの少女世界の衝撃が、発想の原基ともなっているといわれれば、よく肯けるところではある。

そのやなぎに、もう一つ「宝塚」との特異な関係性がある、と斎藤環は論じている。彼女の母親と祖母が熱烈な宝塚ファンであり、そこに世代を越えた「欲望の共同体」が形成されていたこと、そして彼女が思春期以前に、まさに「他者-母親、祖母-の欲望」を強要されるかたちで、「宝塚」への複雑な欲望が-嫌悪を含む-を獲得させられていったこと。これら一連の経緯は、決定的なまでに重要である。なぜならそれは、幼いやなぎ自身にとっても十分にエロティックな欲望として、繰り返し刷り込まれた経験であるからだ。これがなにを意味するか。ようやくエディプス期を過ぎて、セクシュアリティの原器を手にしたばかりの子どもが、息つく暇もなく「性関係のヴァーチャリティ」を刷り込まれるということ。-略- そのような幻想にすらいたっていない幼い心に、まさに別の幻想として「性関係の不在」をインストールすることは、認識とセクシュアリテイに対して、ほとんど決定的な影響をもたらさずにはおかないだろう、と斎藤は続けている。


―四方のたより―
今日のYou Tube-vol.33-
「往還記-OHGENKI-?」のSecond stage
「洛中鬼譚−春霞-YASE-八瀬」

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