余のくさなしに菫たんぽぽ

080209165

<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

空豆の巻」−36
  花見にと女子ばかりがつれ立て  

   余のくさなしに菫たんぽぽ  岱水

次男曰く、遊山、野遊びは、もともと物忌の考えからわざわざ節日をえらんで戸外に出た風習であろうが、花見もその一つである。
「余-よ-のくさなしに」という表現は、それを匂わせているように思われる。挙句の祝言とするに相応しい一風情があるだろう。「余のくさなしに」とは、投込み季物-菫たんぽぽ-を用いて句を仕立てたことばの釣合とばかりも云えない。むろん、発想の手がかりは、前句が「女子ばかり」と男を排しているところを見込んでい、と。

空豆の巻」全句
空豆の花さきにけり麦の縁     孤屋−夏  初折-一ノ折-表
 昼の水鶏のはしる溝川      芭蕉−夏
上張を通さぬほどの雨降て     岱水−雑
 そつとのぞけば酒の最中     利牛−雑
寝処に誰もねて居ぬ宵の月     芭蕉−秋・月
 どたりと塀のころぶあきかぜ    孤屋−秋
きりぎりす薪の下より鳴出して    利牛−秋  初折-一ノ折-裏
 晩の仕事の工夫するなり     岱水−雑
娣をよい処からもらはるゝ      孤屋−雑
 僧都のもとへまづ文をやる    芭蕉−雑
風細う夜明がらすの啼わたり    岱水−雑
家のながれたあとを見に行     利牛−雑
鯲汁わかい者よりよくなりて     芭蕉−雑
 茶の買置をさげて売出す     孤屋−雑
この春はどうやら花の静なる     利牛−春・花
 かれし柳を今におしみて     岱水−春
雪の跡吹はがしたる朧月      孤屋−春・月
 ふとん丸けてものおもひ居る   芭蕉−雑
不届な隣と中のわるうなり     岱水−雑  名残折-二ノ折-表
 はつち坊主を上へあがらす    利牛−雑
泣事のひそかに出来し浅ぢふに   芭蕉−雑
 置わすれたるかねを尋ぬる    孤屋−雑
着のまゝにすくんでねれば汗をかき  利牛−雑
 客を送りて提る燭台       岱水−雑
今のまに雪の厚さを指てみる    孤屋−冬
 年貢すんだとほめられにけり    芭蕉−雑
息災に祖父のしらがのめでたさよ   岱水−雑
 堪忍ならぬ七夕の照り      利牛−秋
名月のまに合せたき芋畑      芭蕉−秋・月
 すたすたいふて荷ふ落鮎    孤屋−秋
このごろは宿の通りもうすらぎし   利牛−雑  名残折-二ノ折-裏
 山の根際の鉦かすか也     岱水−雑
よこ雲にそよそよ風の吹出す     孤屋−雑
 晒の上にひばり囀る       利牛−春
花見にと女子ばかりがつれ立て   芭蕉−春・花
 余のくさなしに菫たんぽぽ    岱水−春

この項をもって、安東次男の「風狂始末−芭蕉連句評釈」に依拠した連句の世界も了である。
「狂句こがらしの巻」にはじまりこの「空豆の巻」にいたる歌仙10巻、昨年1月20日より書き起こして今日まで、延べ360句を渉猟してきたことになる。

以前にも書き留めたが、安東次男の「芭蕉連句評釈」と出会ったのは、1970年6月創刊の「季刊すばる」誌上であった。この頃は「芭蕉七部集評釈」と題して連載されており、後に「芭蕉七部集評釈」正・続2巻となって出版されている。刊行は正巻が’73年、続巻が’78年。以来なお推敲を重ね、十余年を経て新釈の「風狂始末」-‘86年刊-、「続風狂始末」-‘89年刊-、「風狂余韻」-‘90年刊-を上梓しており、これら新釈3巻を一冊にまとめたのが「完本・風狂始末−芭蕉連句評釈」である。

すばる連載時の「芭蕉七部集評釈」はすでに手許にないので確かめるべくもないが、このたび新釈の「風狂始末」を通読しながら、遠く淡い記憶に過ぎて具体的にどうこう言いようもないのだけれど、旧釈・新釈の差異は感触として残るような気がする。「市中は物のにほひや夏の月」を発句とする「市中は」の巻が旧釈には採られていたと記憶するが、新釈では外されているように、巻の構成もまた若干異なるとみえる。
いつか折あらば、あらためて旧釈「芭蕉七部集評釈」も眼をとおしてみたいと思う。

―四方のたより―今日のYou Tube-vol.48-

四方館DANCE CAFEより
「出遊-あそびいづらむ-天河織女-あまのかわたなばた-篇」Scene.10

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