ひとりきりの湯で思ふこともない

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―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月27日の稿に
10月27日、晴、行程3里、美々津町、いけべや

けさはまづ水の音に眼がさめた、その水で顔を洗つた、流るる水はよいものだ、何もかも流れる、流れることそのものは何といつてもよろしい。-略-

途上、愕然として我にかへる−母を憶ひ弟を憶ひ、更に父を憶ひ祖母を憶ひ姉を憶ひ、更にまた伯父を憶ひ伯母を憶ひ−何のための出家ぞ、何のための行脚ぞ、法衣に対して恥づかしくないか、袈裟に対して恐れ多くはないか、江湖万人の布施に対して何を酬ゐるか−自己革命のなさざるべからずを考へざるを得なかつた-この事実については、もつと、もつと、書き残しておかなければならない-。-略-

今日も此宿で、修行遍路ではやつてゆけない実例と同宿した、こんなに不景気で、そしてこんなに米価安では誰だつて困る、私があまり困らないですむのは、袈裟の功徳と、そして若し附けくわへることを許されるならば、行乞の技巧とのためである。
入浴、そして一杯ひつかける、−これで今日の命の終り!

※表題句の外、1句を記す

―日々余話― 遠きと近きと

垣根を越えた同期会といえば、たしかにそう言えなくもない。

私の出身中学は、今の大阪ドーム横にある西中学校だ。卒業が昭和35年だからちょうど50年前、新制11期生にあたるが、これまで50年、同窓会など一度たりとも聞いたことがなかった。前後する先輩後輩の期においてもそんな話を漏れ聞いたこともない。かすかに記憶に残るのは、出身生だったのか二代目の桂春蝶を招んで、卒業生全体に呼びかけた同窓会の如き催しが、いつだったかなされたように思うが、勿論これに出席していない。

西中校下には、九条東小、九条北小、九条南小の3校がある。私らの南小では、20代の頃に2度ばかりと、それからぐんと年月を経て、50代に入る頃から再開され、以後3年間隔ほどのペースで行われてきた。
東小では、卒業生に九条新道の商店主などが多い所為もあり、彼らを中心にあまり途切れることなく行われてきたようだが、人口密集地を背景に最も児童が多かった北小では、うまく音頭取りが出なかったか、ずっと行われてこなかったらしい。

昨夜の同期会企画は、地域興しとして長年「九条下町ツアー」を催してきた谷口靖弘君周辺から起きてきたものだ。卒業して50年となれば、今年みな65歳となり、いわゆる高齢者の仲間入りというわけだが、そんなことが動機となったか、彼らは東小に限らず、この際いっそ南・北へもひろげて、西中同期会へとシフトさせようとしたものだった。
急な話だったけれど、在学時、歴史の先生で、当時から新進の考古学者として発掘調査などに活躍していた藤井直正さんも出席されるというので、協働するのもよいのではないかと思った。

集ったのは計38名、言いだしべえの東小卒が過半を占め20名、北小卒が9名、南小卒が8名、中学のみ在籍が1名という内訳。まさに50年ぶりに出会す顔ぶれが大勢いるものだから、名札を付けていてくれても、顔と名前が結ばれ、遠い記憶が蘇ってくることにもかぎりがある。まず3割は初見の未知の人同然、4割ほどはなんとかその人と形-なり-が思い起こせる人々、残る3割が記憶も鮮やかにこもごも会話の弾む者たち、といったところ。わずか40名ほどの集いで、この遠さと近さのずいぶんな懸隔には、些か戸惑いがはしる。一座は谷口君らの周到な準備と工夫で、まあ賑やかに進行されたが、未知にも等しい遠さは回復させようもないのだから、新たな出会いとしてこのたびこの座から関係を出発させるしかない。

懐かしくも、遠きと近きとが混在して、ちょっと変わった味わいの一夜だった。

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