からりと晴れた朝の草鞋もしつくり

0803

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月29日の稿に
10月29日、晴、行程2里、富高、門川行乞、坂本屋

降つて降つて降つたあとの秋晴だ、午前中富高町行乞、それから門川まで2里弱、行乞1時間。
けふの行乞相もよかつた、しかし、一二点はよくなかつた、それは私が悪いといふよりも人間そのものの悪さだらう! 4時近くなったので此宿に泊る、ここにはお新婆さん宿といつて名代の宿があるのだが、わざと此宿に泊つたのである、思つたよりもよい宿だ、いわしの刺身はうまかつた。

なかなかよい宿だが、なかなか忙しい宿だ、稲扱も忙しいし、客賄も忙しい、牛がなく猫がなく子供がなく鶏がなく、いやはや賑やかなことだ、そして同宿の同行は喘息持ちで耄碌してゐる、悲喜劇の一齣だ。

※表題句の外、1句を記す

−日々余話− きしもと学舎の行く末

一昨夜と昨夜、きしもと学舎だよりのレイアウト作業に没頭。残すはプリントアウトに持込むのみとなった。

岸本康弘は、7月上旬に帰国しており、以後何回か会って会報作りについても話し合ってきのだが、年齢とともに体力の衰えばかりか、障害からどんどん動きづらくなっているようで、ポカラの学校運営もいよいよその在り方を考えなければならなくなってきている。

学舎の転換を図らねばならぬ。万一ある時に備えて、ソフトランディング出来る態にしておかねばならぬ。
学校運営から通学支援へ、転換していくしかないということ。
そんな話し合いの中で、今回は私も原稿を書かねばならぬ羽目となった。以下はその転載である。

民主化の流れ、公教育の充実と拡大のなか、なお学校に行けない子どもらのために
−学校運営から、通学支援-無償の奨学金支給制-へ−転換をめざす

松葉杖を唯一の友として、日本中をさすらい、世界中をさすらった、その果てに
なお燃え尽きない、生命の火の、その末期の住処として
世界の最高峰ヒマラヤの山々に抱かれた、ネパールの町ポカラに
貧困の子らの未来を紡ぐ、学校を建てよう、と

車椅子の詩人・岸本康弘の、この稀有な発心から、ポカラきしもと学舎の事業が始まったのは’97年
民主化の流れで、立憲君主制から共和制へと、激動するネパール情勢に翻弄されつつも
‘01年には、現地NPO法人HDSSを設立、政府認可の学校として、ネパール岸本スクールへと変身
ポカラとの往来暮しも、今年はすでに13年目を迎えました

岸本康弘は、この間ずっと、自身の障害からくる体力の衰えと、病魔の浸蝕に抗いつつ
この限られた余命のなかで
きしもと学舎の会のみなさまの、温かい支援、溢れる善意に支えられつつも
いわば徒手空拳で取り組んできた、生命の火の事業、ポカラでの学校運営を
いかに守りぬくべきか、またどのようなゴールをめざすべきか、考えぬいてきました

いま、ネパールは、民主化はなったとはいえ、不安定な連立政権の下
なお流動的な情勢にあって、さまざま波乱含みであることは、よくご承知のことと思います
とはいえ、この十数年で、国民の識字率は、若年層において格段の上昇を示しており
全土的な公教育の充実、拡大のなかで、初等教育における就学率も、また格段に上昇しています

それでもなお、貧困ゆえに学校に行けない、最下層の、ひとにぎりの子どもたちがいます
ネパール政府は、そういった子どもたちに、その親たちに向けて、就学を奨励喧伝すれども
経済的な援助施策を採るなど、まだまだ到底望むべくもありません

貧しく虐げられたこの子らのために、限られた余命のなか、自身に課すべきはいったいなにか?
いったいどのようなかたちが、望ましいものであるか?
それは、富める者も貧しき者も区別なく、また残存するカーストなどによる差別もなく
どんな子どもたちもみな等しく、同じ学び舎に通い、育つことでありましょうか

ささやかなりとも、この12年の歳月、灯しつづけたその一燈を
岸本康弘は、きしもと学舎の会は
この先、一両年をかけて
学校運営から、通学支援-無償の奨学金支給制-へと
その使命を、転換していきたい、と考えています

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