尿するそこのみそはぎ花ざかり

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―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月30日の稿に
10月30日、雨、滞在、休養、同前宿

また雨だ、世間師泣かせの雨である、詮方なしに休養する、一日寝てゐた、一刻も早く延岡で留置郵便物を受取りたい心を抑へつけて、−しかし読んだり書いたりすることが出来たので悪くなかつた、頭が何となく重い、胃腸もよろしくない、昨夜久しぶりに過した焼酎のたたりだらう、いや、それにきまつてゐる、自分といふものについて考へさせられる。

  今日一日、腹を立てない事
  今日一日、嘘をいはない事
  今日一日、物を無駄にしない事

これが私の三誓願である、腹を立てない事は或る程度まで実践してゐるが、嘘をいはない事はなかなか出来ない、口で嘘をいはないばかりでなく、心でも嘘をいはないやうにならなければならない、体でも嘘をいはないやうにならなければならない、行持が水の流れるやうに、また風の吹くやうにならなければならないのである。

行乞しつつ腹を立てるやうなことがあつては所詮救はれない、断られた時は、或は黙過された時は自分自身を省みよ、自分は大体供養を受ける資格を持つてゐないではないか、応供は羅漢果を得てゐるものにして初めてその資格を与へられるのである、私は近年しみじみ物貰ひとも托鉢とも何とも要領を得ない現在の境涯を恥ぢ且つ悲しんでゐる。

そして物を無駄にしない事は一通りはやれないことはない、しかししんじつ物を無駄にしない事、いひかへれば物を活かして使ふことは難中の難だ、酒を飲むのも好きでやめられないなら仕方ないが、さて飲んだ酒がどれだけの功徳-その人にとつては-を発揮するか、酒に飲まれて酒の奴隷となるのでは助からない。‥‥

今日は菊の節句である、家を持たない私には節句も正月もないが、雨のおかげでゆつくり休んだ。
降る雨は、人間が祈らうが祈るまいが、降るだけは降る、その事はよく知つてゐて、しかし、空を見上げて霽れてくれるやうにと祈り望むのが人間の心だ、心といふよりも性だ、ここに人間味といつたやうなものがある。-略-

一日降りつづけて風さへ加はつた、明日の天候も覚束ない、ままよどうなるものか、降るだけ降れ、吹くだけ吹け。

※表題句の外、7句を記す

―日々余話― Soulful Days-26- 悲母観音に‥

空も、風も、ようやく秋の色
9月9日、昨年の今日、それは午後8時15分頃だった、とされている
夜とはいえ、見通しのよい広い交差点内で起こった、右折車と直進車の衝突事故
直後より脳死状態となっていたRYOUKOは、5日後、その命を絶たれた
甲乙、二人の運転手の刑事責任について、いまだ、検察庁の取り調べは、膠着状態のままだ
1年、365日、8,760時間、525,600分、31,536,000秒
その一瞬、その1秒さえなければ、あの人なつこい笑顔に、いつでも会えたものを
偶然の悪戯とは、これほど酷いものか‥

先日、「悲母観音」が、ようやく届いた
東京芸術大学所蔵の、狩野芳崖の悲母観音
美術書などではともかく、その実物を、この眼で観たのは、事故の一週間前、9月2日であった
額装の、その原寸は1808mm×867mm
小学館が復刻出版した軸装は、外寸こそ1840mm×580mmだが
作品本体のほうは、990mm×440mm、原画の51%大と、些か小振りなのは、致し方あるまい
一周忌の法要を、この日曜日、浄光寺で営むことになっているが
席上、この悲母観音を掲げ、仏となるべきRYOUKOを、荘厳してやりたい、と考えてきた
それが、仏法の儀礼に、適うか否か知るはずもないが、そんなことはお構いなし‥

RYOUKOよ、おまえは、悲母観音になるのだ

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