日向の羅漢様どれも首がない

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―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、12月12日の稿に
12月12日、晴、行程6里、原町、常磐

思はず朝寝して出立したのはもう9時過ぎだつた、途中少しばかり行乞する、そして第十七番の清水寺へ詣でる、九州西国の札所としては有数の場所だが、本堂は焼失して再興冲である、再興されたら随分見事だらう、ここから第十六番への山越は例にない難路だつた、そこの尼さんは好感を与へる人だつた、ここからまた清水寺へ戻る道も難路だつた、やうやく前の道へ出て、急いでここに泊まつた、共同風呂といふのへ入つた、酒一合飲んだらすつかり一文なしになった、明日から嫌でも行乞を続けなければならない。

行乞! 行乞のむづかしさよりも行乞のみじめさである、行乞の矛盾にいつも苦しめられるのである、行乞の客観的意義は兎も角も、主観的価値に悩まずにゐられないのである、根本的にいへば、私の生存そのものの問題である-酒はもう問題ではなくなつた-。

遍路山路の石地蔵尊はありがたい、今日は石地蔵尊に導かれて、半里の難路を迷はないで巡拝することが出来た。-略-
※表題句の外、2句を記す

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―表象の森― 誰もやらない、やれない

私が師事したK師の舞踊には、まぎれもなく物象化への系譜に連なるものがあったと思われるが、いまそんな要素を孕むものは一顧だにされてもいない、というのが少なくとも’90年代以降から今日にいたる舞踊の現状であろう。

私が、K師の初期からの弟子であるからか、あるいは私自身の内に、些か古典的な思考の尾鰭が付着しているがゆえにか、私たちのImprovisation Dance-即興舞踊-では、動きの紡ぎゆき-Continuity-を物象化の側面において捉えようとする視点が、抜き差しならぬものとして存在しているように思う。

だが、Contemporaryなる語が舞踊界を席捲して以来このかた、そんな発想は誰もとらないし、そういった動きの工夫など誰も求めないし、誰もやらない。

先日来、少しく触れてきているように、現在の私たちの稽古場、私たちのwork shopのなかでは、私自身これまでに経験したことのない、ただならぬ事態が起こっている。

仮に、動きの最小単位とでもいうべきものを言語行為における<語彙>に比類するならば、当然、その多様なること、豊かなことが要請されようが、ここ数次の現場では、これが一気呵成といっていいほどに実現してきている。これが先ず一点。

そしてさらにつけ加えるならば、これは、今日の稽古場で、彼女らの比較的短い5.6分のImprovisationを観た後の感想として語ったことなのだが、「謂わば、詩でいうなら<行分け>のようなもの、それが出来てきている、そうやってどんどん動きが紡ぎ出されている、重ねられていっている」と。それぞれ個有の感性で、動きを紡ぎ出しつつ、ある流れというか短い単位−即ち詩の一行から、次なる一行へと、運ばれていっている、そういったことが無意識の裡に出来るようになっている、と、まあそんな意味だ。

こんなことは、いまどき、誰もやらないが、それと同時に、誰もやれない、やれっこない、というのも事実だと思うのだ。
そう言い切ってしまって、その上で、それがどうした、なにほどのことか、と問われれば、否、ただそれだけのこと、これでもって世界が変わるものじゃあるまいし、また驚愕するほどのことでもない、それもまた事実なのだ。

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